<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>

<rdf:RDF
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
  xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
  xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
  xmlns:cc="http://web.resource.org/cc/"
  xmlns="http://purl.org/rss/1.0/">

<channel rdf:about="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/">
<title>日本キリスト教団　岡崎教会 </title>
<link>http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/</link>
<description>2009年標語「喜び祈り合う教会」
　　　　 聖句「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」（テサロニケⅠ5:16-18）
岡崎教会トップページへ

</description>
<dc:language>ja-JP</dc:language>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:date>2009-11-03T23:29:31+09:00</dc:date>
<admin:generatorAgent rdf:resource="http://www.typepad.com/" />


<items>
<rdf:Seq><rdf:li rdf:resource="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/11/post-a097.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/post-8155.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/1918-4f4b.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/263656-f78f.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/261730-8eba.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/09/post-8c41.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/08/243651-1c39.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/08/post-ac6b.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/06/post-a8dc.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/05/post-0bcc.html" />
</rdf:Seq>
</items>

</channel>

<item rdf:about="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/11/post-a097.html">
<title>『講演会＆オルガンコンサート』</title>
<link>http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/11/post-a097.html</link>
<description>岡崎教会１３０周年記念事業の「講演会＆オルガンコンサート－生きるよろこび－」を１...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;岡崎教会１３０周年記念事業の「講演会＆オルガンコンサート－生きるよろこび－」を１０月３１日（土）に開催しました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１００名以上の方が集まってくださり、礼拝堂がいっぱいになりました。オルガンによる賛美、神様からいただいた大切ないのちのお話をお聴きできたことに感謝！！&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;img title=&quot;P1010148&quot; height=&quot;198&quot; alt=&quot;P1010148&quot; src=&quot;http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/11/03/p1010148.jpg&quot; width=&quot;294&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;WIDTH: 294px; HEIGHT: 198px&quot; /&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>okazaki-church</dc:creator>
<dc:date>2009-11-03T23:29:31+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/post-8155.html">
<title>１０月３１日（土）　講演会＆オルガンコンサート開催！！</title>
<link>http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/post-8155.html</link>
<description>今週末の１０月３１日（土）に日本キリスト教団岡崎教会では、創立１３０周年記念事業...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; LAYOUT-GRID-MODE: char; TEXT-ALIGN: left; mso-layout-grid-align: none&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-hansi-font-family: &#39;ＭＳ ゴシック&#39;&quot;&gt;&lt;span face=&quot;ＭＳ ゴシック&quot;&gt;今週末の１０月３１日（土）に日本キリスト教団岡崎教会では、創立１３０周年記念事業の一つとして、下記のとおり『講演会＆オルガンコンサート』を開催いたします。&lt;br /&gt;入場無料、ご予約は不要ですので、ぜひ、お気軽にお越し下さい。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;mso-hansi-font-family: &#39;ＭＳ ゴシック&#39;&quot;&gt;&lt;span face=&quot;ＭＳ ゴシック&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; LAYOUT-GRID-MODE: char; TEXT-ALIGN: left; mso-layout-grid-align: none&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;&lt;strong&gt;講演会＆オルガンコンサート　―生きるよろこびー&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; LAYOUT-GRID-MODE: char; TEXT-ALIGN: left; mso-layout-grid-align: none&quot;&gt;　&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #ff0066;&quot;&gt;とき：平成&lt;span style=&quot;LETTER-SPACING: -1pt&quot;&gt;２１&lt;/span&gt;年&lt;span style=&quot;LETTER-SPACING: -1pt&quot;&gt;１０&lt;/span&gt;月&lt;span style=&quot;LETTER-SPACING: -1pt&quot;&gt;３１&lt;/span&gt;日&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #ff0066;&quot;&gt;(土)午後２時～４時&lt;br /&gt;　ところ：日本キリスト教団岡崎教会（岡崎市八幡町１－３６）&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;　　　　　&lt;br /&gt;　第１部　オルガンコンサート&lt;br /&gt;　　　　　　演奏：加藤千加子さん&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　チューリヒ聖カタリーナ・カトリック教会元主席オルガニスト&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　日本オルガニスト協会会員、日本基督教団熱田教会員&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　演奏曲目：グノー『アヴェマリア』&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　バッハ『Ｇ線上のアリア』『プレリュードとフーガ変ホ長調』&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　リスト『アダージョ』ほか&lt;br /&gt;　第２部　講演『生きるよろこび』&lt;br /&gt;　　　　　　講師：辻岡健象氏牧師&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　「小さないのちを守る会」会長。教育学博士。&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　望まれない妊娠から、赤ちゃんの命を守り、母親を絶望から救い、&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　出産の立会いや、養子縁組のお世話など、敏子夫人と共に全国を&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　東奔西走し、これまでに２００人以上の赤ちゃんを養子縁組。&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　現在もいのちの尊厳を訴え続けていらっしゃいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>okazaki-church</dc:creator>
<dc:date>2009-10-25T22:01:08+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/1918-4f4b.html">
<title>『彼に触れて』　　列王記上19：1～8</title>
<link>http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/1918-4f4b.html</link>
<description>エリヤは、紀元前約１０世紀、神の人と呼ばれ、主の預言者でした。 イスラエルが北と...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;&lt;img title=&quot;091018_113933&quot; height=&quot;170&quot; alt=&quot;091018_113933&quot; src=&quot;http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/10/25/091018_113933.jpg&quot; width=&quot;136&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 0px 5px 5px; WIDTH: 136px; HEIGHT: 170px&quot; /&gt;エリヤは、紀元前約１０世紀、神の人と呼ばれ、主の預言者でした。 イスラエルが北と南に分かれている時代、北イスラエル王国のアハブ王や、異教のバアルとアシェラの祭司たちに立ち向かった偉大な預言者です。しかし、&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;19章に描かれているエリヤの姿は、そんな彼が弱り果て「うつ」になってしまったことを示しています。それも彼の人生のクライマックスとも言える時にです。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;その時、北の国王アハブと王妃イゼベルは、異国の宗教、バアルを導入し、イスラエルで信じられてきた主なる神を信ずる者を迫害しました。これに対して、エリヤは勇気を持ってアハブ王に立ち向かいました。王は彼を捕らえようとします。しかしエリヤは逃れました。イゼベルは迫害の手を緩めず、主の預言者たちは次々と倒れていきました。このような中、多くのイスラエルの民が、バアルとアシェラを拝み始め、真の神、主のみ心からどんどん遠ざかっていきました。やがてエリヤはまた、王の前に姿を現します。そして「これからイスラエルの全ての人に命じて、カルメル山に集まるよう言いなさい。そしてイゼベルの食卓につく&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者とを集めなさい。」と言います。いよいよエリヤと、バアルの預言者との対決が始まるのです。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;民は群れをなして集まり、この対決の場を準備するエリヤの様子を見つめました。エリヤもバアルの預言者側も、それぞれいけにえとして雄牛一頭を選び、カルメル山に築かれた祭壇の上に据えました。どちらも自分たちでは火をつけず、イスラエルの主なる神、あるいはバアルが火をつけるのです。戦いの火ぶたは切って落とされました。バアルの預言者たちは長い間、激しく大きな声で呼ばわりながら祈りましたが、火は着きません。騒いだりわめいたりし続けましたが、結局何もおこりませんでした。次にエリヤの番になると、彼は祭壇に水を注ぎ、火がおこりにくくしました。そしてエリヤは主なる神に短く祈りました。すると、主の火が天から降ってきて、いけにえと塵までも焼き尽くし、水をすっかりなめつくしてしまいました。民はみな、これを見てひれ伏し「主こそ神です。」「主こそ神です。」と言いました。戦いは主なる神とエリヤの大勝利でした。そこでエリヤは、「バアルの預言者どもを捕らえよ。一人も逃がしてはならない」と民に命じます。民は彼らを捕らえると、エリヤは彼らを川に連れて行って、そこでバアルとアシェラの預言者たちを滅ぼしました。そしてこのことは、アハブ王から王妃イゼベルに告げ知らせられました。彼女は怒ってエリヤに使いを遣わしました。「私が明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」つまり&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;24時間以内にエリヤを殺すと言うのです。アハブ王を前に、異教の祭司たち８５０人を、たった一人で打ち負かしたエリヤが、王妃の一言の言葉で奈落の底に陥れられました。イゼベルがいかに恐ろしいとしても、いくつもの修羅場をくぐってきたエリアです。今さら恐がることもないのではと思います。しかし、彼は目の前が真っ暗になりました。彼は一人荒れ野に入って行き、祈りました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」彼は、死んでその精神的苦痛から逃れることを願うほどに落ち込んだのです。肉体的な苦痛は何とか耐えられても、精神的苦痛はしばしば人の命を取り去ることがあります。エリヤは、立っても座っても、寝ても覚めても、この苦痛からは逃れられなくなりました。そして彼は｢うつ｣になったのです。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;　自分の命が絶えることを願ったエリヤは、一本のエニシダの木の下で眠ってしまいました。エリヤが眠っていると、御使いが彼に触れて言いました。「起きて食べよ。」と。彼が見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になりました。神はエリヤに眠る場所と食べ物、飲み物を備えてくださいました。そしてこれは繰り返されました。彼には一時、仕事から離れ、ゆっくり休み、しっかり眠ることが必要だったのです。彼が眠っている間に、神は食事の用意をしておられました。叱咤激励もなく奨励もなく、ただ静かに彼に触れ、「起きて食べよ。」と語りかけられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;私は思います。なんと温かな神さまだろうと。なんと忍耐のある神さまだろう。うつ病は最近でこそ、その病にある程度の理解を示してもらえます。それまでは｢怠け病｣みたいに思われてきました。患者は｢うつ｣そのものの辛さに加え、｢理解されない｣という辛さが伴っていたのです。しかし神は、うつ病にかかったエリアを受け入れ、癒してくださるのです。エリヤは神の温かさに触れ、しみじみと癒されていくことを感じたに違いありません。「エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。」とあります。神はまずエリヤに、四十日四十夜歩き続ける力を与えてくださいました。そして彼は神の山といわれるホレブで主と出会い、そこで神の声を聞くのです。そこで彼は新しい力を得るのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;エリヤは、時間はかかりましたが、神の助けによって、うつ病を克服し、新たな務めに遣わされました。私たちも、いつか｢うつ｣に捕らわれることがあるかもしれません。不信仰だからうつ病になるのではありません。また信仰を持てばうつ病が治るというわけでもありません。神さまは、たとえ私たちがうつ病になっても、決して見捨てたりされません。必ず癒しの道を備えてくださるのです。私たちは、独りぼっちではありません。神が共にいてくださるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>okazaki-church</dc:creator>
<dc:date>2009-10-25T21:54:07+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/263656-f78f.html">
<title>『ゲッセマネの祈り』　　　マタイ26：36～56</title>
<link>http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/263656-f78f.html</link>
<description>ゲッセマネという所は、エルサレムから谷を隔てて東側の小高い丘(オリーブ山)の中腹...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;ゲッセマネという所は、エルサレムから谷を隔てて東側の小高い丘&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;(オリーブ山)の中腹にあります。その名前は、オリーブから油を搾る圧搾機を意味する言葉です。十字架の時が迫ってきていることを感じたイエスさまは、そこで３回、苦しみに満ちた祈りをささげられました。そこには平然としたイエスさまの姿ではなく、苦しみもだえる姿が描かれています。イエスさまが苦しみを受けられたのは、私たち一人ひとりの罪のためです。本来は私たちがそのような苦しみに囚われるはずでした。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;イエスさまは祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」聖書では、苦しみを分かち合う象徴として「杯」という言葉が用いられました。イエスさまは勇敢に平然と十字架への道を歩まれたわけではありません。「死ぬばかりに悲し」まれ、この杯、つまり十字架から逃れることができるなら、それを過ぎ去らせてくださいと祈られるのです。ここに弱気のイエスさまを見出し、躓きを覚える方もおられるかも知れません。しかし、確かにイエスさまは十字架から逃れたいと苦しみもだえ祈られました。しかし、それは他の誰でもない、私たちのためでした。本当は一人ひとりが神さまの前に罪を犯し、その罪によって神さまと断絶し、嘆きながら、滅びの道を歩まなければならなかったのです。イエスさまは本来、私たちが受ける苦しみを自ら引き受け、私たちの代わりに嘆き苦しまれたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;しかし、イエスさまはその時、自分の願いどおりではなく、神さまの御心が行われるように祈られました。私たちの普段の祈りと、イエスさまの祈りはここが違います。神さまの前に苦しみもだえ、それを取り去ってくださるように祈るばかりではなく、神さまのみ心を優先されるのです。ここにキリスト者の学ぶべき祈りの姿があります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;イエスさまは祈られてから、一旦弟子たちの所に戻られます。しかし、彼らは眠っていました。「わたしと共に目を覚ましていなさい。」と言われていたにもかかわらず、ペトロをはじめとする３人の弟子たちは眠ってしまいました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」再度、イエスさまは弟子たちにおっしゃって再び離れた所に行って祈られました。この祈りでイエスさまは覚悟されました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」父なる神さまと、子なるイエスさまが一つになったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;再び弟子たちの所に戻ってみると、彼らはまた寝ていました。聖書には「ひどく眠かったのである。」と書かれています。とても疲れていたのだと思います。エルサレムに入ってから、イエスさまに従う弟子たちは、緊張の連続でした。「心が燃えても、肉体は弱い」とイエスさまは彼らをよく理解されました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;そしてまた、イエスさまは離れたところに行って３度目も同じ言葉で祈られました。その間、弟子たちは再び眠っていました。イエスさまは一人でした。弟子たちと一緒の時でさえ、イエスさまは孤独でした。誤った期待を抱いていた弟子たちは、イエスさまの十字架への道を、再三の予告にもかかわらず、理解していませんでした。イエスさまにとって十字架は、迷いと不安に陥りながら、孤独に悩みながら、やっと選び取った道だったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;３度目の祈りの後、イエスさまは３人の弟子たちを起こし、「時が近づいた。」と言われ、自分を捕らえる者たちが近づいているのをご存知でした。「人の子は罪人たちの手に引き渡される。」受難予告がいよいよ現実になるその時を迎えられたのです。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」私を裏切る者とは、他でもない、十二弟子の一人、イスカリオテのユダのことです。イエスさまはその裏切りを、最後の晩餐の時に、すでに知っておられました。自分と共に歩んできた弟子の一人が、自分を裏切るのですから、イエスさまは悲しかったでしょう。ユダに限らず、ペトロもイエスさまを知らないと３度言いました。これも裏切りだと言えるでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;イエスさまは、共に目を覚まして祈れない弟子たち、自分を陥れようと裏切る弟子の中で、十字架の道を踏み出されたのです。彼は孤独の中で十字架にかかられたのです。弟子たちが、誰が偉いかを競い、大言壮語している時に、イエスさまは孤独の中で自らの弱さを感じ、祈りの必要を覚えられたのです。強いのみで弱さを感じない者は真に強い者ではありません。いつも一人静かに祈られるイエスさまが、この時ばかりは３人の弟子たちを連れて祈られるのです。それはとても珍しいことでした。彼らは眠ってしまいましたが、イエスさまが小さく、弱く、低くなられた、その謙虚の証人となるのです。彼はだから小さく、弱く、低い者の気持ちがわかるのです。しかし、イエスさまの苦しみが、誰もそれが自分の罪のためだとは思いませんでした。イエスさまの復活に出会い、聖霊の力を得るまでは、誰一人としてイエスさまを理解していなかったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;イエスさまと一緒にゲッセマネに行った３人は、イエスさまの３回の願いにもかかわらず、眠り込んでしまいました。マタイはイエスさまの３回の祈りを記し、神さまの「み心」を行うというイエスさまの決意を繰り返していますが、少なくともこの物語の中では、イエスさまの願いに対する神さまからの直接的な答えは記されていません。しかし、大事な場面で弟子たちが眠り込んでしまったという不名誉と、苦しみ悩むイエスさまの姿を伝えるこの伝承は、逆に後のキリスト者に大きな力づけとなったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;弟子たちも私たちと同じ、弱さをもった愚かな人間です。しかし、そんな私たちのために、イエスさまは十字架への道を歩まれました。人間が自分自身ではどうすることもできない罪に囚われているところから、私たちを救ってくださいました。イエスさまは、この福音の犠牲となられました。それほどまでに、神さまは私たちを愛してくださっているのです。私たちもこのみ言葉に励まされて、それぞれの歩みを力強く踏み出す者でありたいと思います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>okazaki-church</dc:creator>
<dc:date>2009-10-25T21:51:35+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/261730-8eba.html">
<title>『最後の晩餐』　　　マタイ26:17～30</title>
<link>http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/10/261730-8eba.html</link>
<description>時は除酵祭の第一日目の出来事です。除酵祭は過越祭と共に行われます。これはかつてイ...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;時は除酵祭の第一日目の出来事です。除酵祭は過越祭と共に行われます。これはかつてイスラエルの民がエジプトから脱出した時、酵母&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;(パン種)を入れないパンを急いでつくり、食べたことを記念するためのものです。弟子たちは、イエスさまに「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と尋ねます。この過越の食事ですが、これがイエスさまと弟子たちの最後の食事です。ゆえに最後の晩餐と呼ばれています。これを表したダビンチの絵画をご覧になった方は多いでしょう。過越の食事の場所はイエスさまがすでに準備しておられました。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;イエスさまはいつも私たちを先回りしておられます。祈る前に私たちの必要を知っておられ、私たちの罪に先立って、贖いを用意しておられるのです。ただ、私たちも用意するものがなくてはなりません。それはこの出来事を受け入れる信仰です。もちろん信仰は与えられるものではありますが、その信仰に欠かせない悔い改めは、福音に対する人間の主体的な応答です。弟子たちが、「イエスに命じられたとおりにし」たように、またパンと葡萄酒を受け取って食べるように、悔い改めて、この主の用意したところに行くことです。神さまは最後の瞬間まで、悔い改めを待っておられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;最後の晩餐に与ったのは、十二弟子たちです。今度は彼らの中に大きな波紋を残したイエスさまの言葉が記されています。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と言う言葉に、十二人の弟子たちはショックを受けたでしょう。「裏切る」という言葉は本来は「引き渡す」という意味です。後の弟子たちの感情を入れて「裏切る」と訳されるようになりました。イエスさまを憎む人たちに、イエスさまを引き渡すことによって、ユダはイエスさまを退けたのだと言えるでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;ともかくこの過越の食事、最後の晩餐には、裏切り者も共におり、それにあずかっているのです。裏切りはイエスさまの十字架の救いを無効にするとか、あるいは弱いものとするのでしょうか。いやむしろそれをいっそう深いものにし、「罪の増すところに、恵みもいや増す」という神さまの贖いの真理をより豊かに示すものとなったのです。私たちは、自分の中にあるユダを見て、畏れなくてはなりません。それと共に、早く悔い改めて、主の食卓に与らなくてはなりません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;聖餐はイエスさまが私たちを救うために苦悩し、すべてを私たちのために投げ出された恵みの出来事に他なりません。したがって、たとえパンと葡萄酒が地上のものであっても、いわゆる「代用品」ではありません。もしこれが代用品で、単なる象徴に過ぎないのなら、私たちの信仰も代用品になるでしょう。聖餐は、イエスさまが事実、肉を裂かれ、血を流された出来事を示すものです。イエスさまがそのパンを「私の体です」と言われる時、この恵みの事実を信ずる者にとって、イエスさまは現実に、そこにおられるのです。葡萄酒の場合も同じです。イエスさまの記念としの聖餐式に与ることは、信じる者すべてに開かれているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;コリントの信徒への手紙一&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;11章23節以下にパウロを通して記されている、イエスさまの「わたしの記念としてこのように行いなさい」。「飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」とのみ言葉を守ることは重要なことです。「罪の赦しを得させようと」して、この聖餐式を、弟子たちとの最後の晩餐の時に定められたのです。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;罪の赦しはイエスさまの権能の中にあります。イエスさまの誕生の時、彼のみ名は、「自分の民をその罪から救う」お方を表すものとされました。また「人の子は地上で罪を赦す権威を持っている」ことも明らかにされました。しかも、この罪の赦しは「罪のない人の血が売られる」ことで成就したのです。罪のない人、それは神の子イエスさまです。彼の血が流されることによって、私たちは裁きと滅びから解き放たれました。裁き、滅ぼされるべき人間が、赦され生かされる者へと変えられたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>okazaki-church</dc:creator>
<dc:date>2009-10-25T21:48:19+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/09/post-8c41.html">
<title>講演会＆オルガンコンサート</title>
<link>http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/09/post-8c41.html</link>
<description>日本キリスト教団岡崎教会では、創立１３０周年記念事業の一つとして、下記のとおり『...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;mso-hansi-font-family: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;&lt;span face=&quot;ＭＳ ゴシック&quot;&gt;&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; LAYOUT-GRID-MODE: char; TEXT-ALIGN: left; mso-layout-grid-align: none&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-hansi-font-family: &#39;ＭＳ ゴシック&#39;&quot;&gt;&lt;span face=&quot;ＭＳ ゴシック&quot;&gt;日本キリスト教団岡崎教会では、創立１３０周年記念事業の一つとして、下記のとおり『講演会＆オルガンコンサート』を開催いたします。&lt;br /&gt;入場無料、ご予約は不要ですので、呼吸のようなチャーチオルガンの深い響き、辻岡氏のメッセージをどなたでもお聴きいただけます。ぜひ、お気軽にお越し下さい。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;mso-hansi-font-family: &#39;ＭＳ ゴシック&#39;&quot;&gt;&lt;span face=&quot;ＭＳ ゴシック&quot;&gt;&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; LAYOUT-GRID-MODE: char; TEXT-ALIGN: left; mso-layout-grid-align: none&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;&lt;strong&gt;講演会＆オルガンコンサート　―生きるよろこびー&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; LAYOUT-GRID-MODE: char; TEXT-ALIGN: left; mso-layout-grid-align: none&quot;&gt;　とき：平成&lt;span style=&quot;LETTER-SPACING: -1pt&quot;&gt;２１&lt;/span&gt;年&lt;span style=&quot;LETTER-SPACING: -1pt&quot;&gt;１０&lt;/span&gt;月&lt;span style=&quot;LETTER-SPACING: -1pt&quot;&gt;３１&lt;/span&gt;日&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;(土)午後２時～４時&lt;br /&gt;　ところ：日本キリスト教団岡崎教会（岡崎市八幡町１－３６）&lt;br /&gt;　　　　　入場料：無料（予約不要）&lt;br /&gt;　第１部　オルガンコンサート&lt;br /&gt;　　　　　　演奏：加藤千加子さん&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　チューリヒ聖カタリーナ・カトリック教会元主席オルガニスト&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　日本オルガニスト協会会員、日本基督教団熱田教会員&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　演奏曲目：グノー『アヴェマリア』&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　バッハ『Ｇ線上のアリア』『プレリュードとフーガ変ホ長調』&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　リスト『アダージョ』ほか&lt;br /&gt;　第２部　講演『生きるよろこび』&lt;br /&gt;　　　　　　講師：辻岡健象氏牧師&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　「小さないのちを守る会」会長。教育学博士。&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　望まれない妊娠から、赤ちゃんの命を守り、母親を絶望から救い、&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　出産の立会いや、養子縁組のお世話など、敏子夫人と共に全国を&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　東奔西走し、これまでに２００人以上の赤ちゃんを養子縁組。&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　現在もいのちの尊厳を訴え続けていらっしゃいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>okazaki-church</dc:creator>
<dc:date>2009-09-19T09:19:50+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/08/243651-1c39.html">
<title>『目を覚ましていなさい』　　マタイ24：36～51</title>
<link>http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/08/243651-1c39.html</link>
<description>　３６節の最初に「その日、その時」と言われているのは、終末の時、キリストが再びや...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;　３６節の最初に「その日、その時」と言われているのは、終末の時、キリストが再びやってこられる時、すなわち再臨の時を指しています。その日時については父なる神さまだけが決められるのであって、たとえ天使であっても、そして「子も」と書かれているので、イエスさま自身も知らないのだとはっきり記されています。&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;その日時をあたかも知っているかのように振る舞う人々もいます。天使たちも子も知らない、と言われることを、あたかも自分たちが知っているかのように考えるのは、とても傲慢で不遜な態度です。はっきり言えるのは、「何年何月何日に終末は来る」と人を惑わし集めた宗教家は、すべてが間違っていただけではなく、神さまのみ心に反していたということです。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span lang=&quot;EN-US&quot; style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;37節では「人の子が来る」終末・再臨の時は、「ノアの時と同じ」であるとされています。ノアの洪水物語では、神さまは地上に悪がはびこるのをご覧になり、人間を造ったことを悔いて、世を滅ぼそうとされます。ただ、その時ノアとその家族だけが、神さまの「好意」を得て、箱舟をつくり、この洪水を逃れます。他の人々は、大きな箱舟をつくるノアを好機の目でとらえながらも、飲み食いし、日常を楽しんでいました。そして、神さまはある日大洪水を起こし、ノアとノアの家族以外の人間すべてを滅ぼされます。洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、彼らは何も気がつかなかったのです。&lt;/span&gt;&lt;span lang=&quot;EN-US&quot; style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;42節の「目を覚ましていなさい」という言葉は、中世の教会以来、一生懸命良き行いをし、主に感心していただくことだ、と理解されてきました。しかしこれでは、イエスさまが語った最も大切な本質的な意味から外れてしまいます。「目を覚ましている」。それは、主に信頼し心を開き、主の約束を受け止めて、確かに終末の日がやって来るのだ、と認めることです。&lt;/span&gt;&lt;span lang=&quot;EN-US&quot; style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;43節からの、泥棒が忍び込めないように、夜も眠らず目を覚ましている一家の主人という比喩を、人生の成績・業績に捕らわれたまま文字通りに受け取れば、キリスト者たる者、神経が休まる日はないでしょう。しかしこの「一晩中」という表現を、「一生涯変わらずに一つの姿勢を貫く」という意味に受けとめればどうでしょう。「目を覚ましている一家の主人」の姿は、神の言葉に従って箱舟を作るノアのように、主を信じる信頼の姿勢を生涯持ち続ける人、たとえ世界中に笑われても主が必ずおいでになるという立場を崩さない人の姿です。&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;つまり、「その日その時」が必ず来ることを認め、再臨のイエスさまを待ち続けること。他のどんなものも拠りどころとせず、ただ私たちを贖ってくださるキリストだけに希望を置くこと。そのことが「目を覚ましている」ことの内容なのです。「目を覚ましていなさい」といわれた時にわたしたちができるのは、ただ「主の再臨を待ち望むこと」だけです。それ以外に私たちにできることは無いのです。周囲がこぞって笑っても「この世に神などはいない」「なるようになるだけだ」と断言されても、無視されても、神がこの世界の仕上げをなさる時、この私を体ごと贖い尽くしてくださる時を待ち望み、その時が来るまで、私たちのために死んで復活なさったイエスさまに目を注いでいることが、「用意していること」です。暗闇の中でも、行き詰まりに見える時も、必ずその方から力をいただいて立っていることです。一晩中「寝ずの番をする」というのは、この姿勢を一生涯、崩さないでいることなのです。&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;私たちは、自分が「忠実な僕」になれたかどうか、成績の採点に気を取られ、おろおろする必要はありません。その採点に心を奪われると、かえって偽善者になってしまいます。どんなに弱さや矛盾を自分の内に感じていても、それでもイエスさまの力で復活の命を注ぎ込まれて生かしていただいている。そう信じること。これが何より大事なことです。イエスさまは予想しない日、思いがけない時に帰って来られます。「あなたを父の家に迎える」と約束されたその方を信じて待ちましょう。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;再臨の時、イエスさまは確かに裁き主としてもやって来られますが、イエスさまの到来は救いの完成のためのものなのです。その時、イエスさまは、自分たちの悪に気付かず、神さまの言葉に従わなかった人々のもとへも行き、救いを示してくださるはずです。なぜなら、イエスさまの十字架で贖われないような罪はないからです。しかし、そのことを信じて生きるか、信じないで生きるかでその人の人生は大きく変わってきます。主を信じ、平安と恵みに満ちた生涯を送りたいものです。&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;本当は終末から先は、具体的にはよく分からないのです。「その日、その時が分からない」だけではなく、「その日、この私はどうなるのか」も不明なことばかりです。神さまはわざと詳細不明のまま「信じなさい」とおっしゃるのです。それに従うのが信仰だからです。ただし、詳細不明のまま信ずる、というのは、ただの盲信になりかねません。そうではなく、救い主イエスさまとの出会いによって、たとえ詳細がはっきりしていなくても信頼できるか－それだけのものを主キリストから受けたか－それがここで問われているのです。信頼、信仰を支えるのは愛です。キリストの愛を身に受けた人だけが「目を覚まして」いられるのです。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>okazaki-church</dc:creator>
<dc:date>2009-08-14T23:24:04+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/08/post-ac6b.html">
<title>『聖霊に満たされる』　使徒言行録２：１～１３</title>
<link>http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/08/post-ac6b.html</link>
<description>　今年は5月31日がペンテコステ、聖霊降臨日です。教会では、イエスさまの弟子達に...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;　今年は&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;5月31日がペンテコステ、聖霊降臨日です。教会では、イエスさまの弟子達に聖霊が降り、初代の教会が誕生した日として祝います。その聖霊は、その時だけでなく、今も私たちの教会に、また教会に連なる一人ひとりに降されています。そのことを心から感謝しましょう。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;ペンテコステとはギリシア語で「&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;50番目」を意味し、旧約聖書の伝統では「過越の祭り」の50日後のお祭り---収穫の最初の実りを神さまに供える「五旬祭」---のことです。そして、新約のキリスト教会の教会暦では、イースター(復活日)から50日目、あるいは50日間を意味しています。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;使徒言行録では、イエスさまの復活から&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;40日間、弟子たちに姿を現され、神の国について話され、また一緒に食事をされました。その後、天に挙げられます。その日が昇天日です。その際、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と約束されました。その約束が成就したのが、ペンテコステの出来事なのです。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;その日、弟子たち一同は一つになって集まっていました。復活のイエスさまに出会った時、確かに弟子たちは力づけられました。だから、迫害の危険を感じながらも、エルサレムに留まることができました。しかし、彼らはやはり一人ではおられません。迫害に対する恐れと不安が絶えずつきまといます。彼らは一つに集まっていました。そうやって弟子たちが集まっているところに、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのです。&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしました。イエスさまが昇天される際に｢あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる｡｣と約束されていたように、弟子たちは福音を力強く宣べ伝える者とされたのです｡&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;聖霊の降臨はイエスさまの約束&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;(ヨハネ16章)の成就です。またさらに、息を吹き入れられることによって生命が誕生する(創世記2:7)という旧約聖書の言葉と重ね合わせて、この出来事は教会の誕生と見なされているのです。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;「風」は聖霊の自由を現し、「炎」はその力を現します。聖霊の炎がつくと、どんなに冷たく、弱く、暗い者でも燃え始めます。しかも、これは大事なことなのですが、聖霊降臨の出来事は、何だか怪しい十把一からげの集団エクスタシーではありません。&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;聖霊は、一人ひとりを大切にし、一人ひとりを生かします。聖書には、神さまから送られた聖霊は、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった、とはっきり記されています。神さまは一人ひとりに聖霊の賜物を与えてくださるのです。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;あらためて、『聖霊』とはいったい何でしょうか。それは神さまの力、いや私たちの中に働く神さまご自身と言ってもいいでしょう。聖霊とは、私たちを内側から動かす力そのものなのです。私たちは聖霊なしには、福音を喜び宣べ伝えることができません。この聖霊を、わたしたちはどこからいただくのでしょうか。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;聖霊を受けるには、祈ることが大切です。祈りなくして聖霊を受けることはできません。しかし、間違ってはならないことは、自動販売機のように、祈れば聖霊が必要なだけ出てくるのではないのです。私たちの要求と聖霊降臨とは、直接結びついているわけではありません。こうすれば聖霊を受けることができる、などという方法や手だてはないのです。それは、ただ聖霊なる神さまご自身からいただくのです。&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;実は、すでに今も聖霊は注がれているのです。私たちがそれに気付かないだけです。一人ひとりには、すでに神さまから聖霊の賜物が与えられています。聖霊の導きによって、私たちは目には見えないイエスさまと並んでこの世の道を歩んでいます。&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;ペンテコステの出来事は、過去の出来事ではありません。現在も聖霊降臨は続いているのです。そのことに気付いて生きていけるよう、祈りましょう。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>okazaki-church</dc:creator>
<dc:date>2009-08-14T23:23:12+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/06/post-a8dc.html">
<title>子どもの日・花の日礼拝</title>
<link>http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/06/post-a8dc.html</link>
<description>６月１４日（日）の主日は、子どもの日・花の日礼拝でした。 　子どもたちの健やかな...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img title=&quot;Flower2&quot; height=&quot;207&quot; alt=&quot;Flower2&quot; src=&quot;http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/06/25/flower2.jpg&quot; width=&quot;288&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: left; MARGIN: 0px 5px 5px 0px; WIDTH: 288px; HEIGHT: 207px&quot; /&gt; ６月１４日（日）の主日は、子どもの日・花の日礼拝でした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　子どもたちの健やかな成長を祈り、花を飾って創造主なる神さまを讃える子どもの日・花の日礼拝は、岡崎教会では子どもも大人も一緒に集う合同礼拝です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　礼拝前、少し早い時間に集まり、子どもたちと大人たちでたくさんの花束とアレンジメントをつくりました。ペットボトルで作った花器にオアシスをセットし、そこに 子どもたちが思い思いに、色とりどりの花たちをアレンジして、最後にメッセージカードもつけました。&lt;br /&gt;　男の子たちが、思いの外楽しそうに、工夫しながらアレンジをしていました。&lt;img title=&quot;Flower1&quot; height=&quot;230&quot; alt=&quot;Flower1&quot; src=&quot;http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/06/25/flower1.jpg&quot; width=&quot;178&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 0px 5px 5px; WIDTH: 178px; HEIGHT: 230px&quot; /&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　講壇前の聖餐卓に、そのアレンジメントや花束を飾り、会堂には花の香りが満ち、華やかになった中、会堂の前の方の席に子どもたちが座り、礼拝が始まりました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　礼拝の式次第は、子どもの教会のものですすめられ、讃美歌もこどもさんびかに載っている讃美歌を、全員で大きな声で歌って、主を賛美しました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　礼拝では、柳本牧師から「本当の花大臣」というメッセージが子どもたちにもわかりやすく語られました。祝福式も行われ、子どもたちが祝福を受けました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　礼拝後には、献げられた花を、病床にあって礼拝に集うことの出来ない方やご高齢の方に届け、また、いつも教会へ送り出してくれる家族へ、自分へと持ち帰りました。&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>okazaki-church</dc:creator>
<dc:date>2009-06-25T21:34:40+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/05/post-0bcc.html">
<title>『最も大切な掟』　　　マタイ２２：３４～４６</title>
<link>http://okazaki-church.cocolog-nifty.com/200410/2009/05/post-0bcc.html</link>
<description>ファリサイ派の人々は、イエスさまがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;ファリサイ派の人々は、イエスさまがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まりました。サドカイ派もイエスさまとの論争に負けた。ならば再びファリサイ派が、ということなのでしょう。今度は律法の専門家がイエスさまに対決します。彼はイエスさまを「試そう」として尋ねます。「試そう」という言葉は、イエスさまが公生涯に入られる前、荒れ野で四十日間悪魔の「試み」&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;(誘惑)に遭われました。その時と同じ言葉が使われています。この箇所での意味は、「敵対的な問いかけ、陰謀」という意味になるでしょう。ある人は、「イエスさまの生涯は、試みられることとの戦い」ではなかったか、と言っています。確かに、そうでしょう。イエスさまは絶えず試みにさらされていました。しかし、イエスさまの復活は、その「試み」に対する勝利なのだと思います。&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」律法の専門家、と呼ばれているのですから彼らは律法学者だったと考えられます。その彼らが神さまが与えられた掟に、重要度をつけようとしているのでしょうか。それに対してイエスさまは答えられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」これは申命記&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;6章5節にある「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉です。これが最も重要な第一の掟なのだとイエスさまは語ります。そして「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」レビ記19章18節後半の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という言葉です。&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;イエスさまが言われた「最も重要」とは、些細な掟に対する重要な掟、ということではありません。これは律法の&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;(大いなる)原理を意味しています。「神さまへの愛」と「隣人への愛」が一番、なのではなく、「神さまへの愛」と「隣人への愛」によって律法は成立する、ということの重要性が語られているのです。どちらか一方では成り立たないのです。イエスさまも「第二も、これと同じように重要である。」第一のものと‘同じように’重要であるとおっしゃっています。マタイによる福音書は、この出来事を単なる論争として取り扱うのではなく、イエスさまの宣言として捉えているのです。そして、このことは、そうであればそうであるほど、このイエスさまの言葉に対して、「どう聞き、どう応えるのか。」が問われているのです。&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;イエスさまの言葉はまさに「福音の凝縮」です。そこには“愛なる神”が満ちています。そしてそれは私たちに迫ります。「愛の欠如の危機」が、今を生きる私たちを襲っています。人はいよいよ自己中心的に物事を考え、自分の都合の良いように為すべきことを決定していきます。本来、その中心におられるのは神さまです。しかし、人はその罪ゆえに、神のおられるはずのところに、自分を、人間を置いてしまったのです。聖書はそこから自分を解放し、神さまを愛しなさいと言っています。神さまを愛することによって、私たちお互いの中にも愛が生まれるのです。そして私たちの内に愛がなければ、それは神さまを愛することにはならないのです。私たちに必要なこと。それは、神さまを神さまのいるべきところにおく、ということです。イエスさまは第一の重要な掟として「神さまへの愛」を説かれました。そして第二。これは第一に続く第二、という順序や序列づけで言っておられるのではありません。「次に言うのもそれと同じことだが」という言い方で言われました。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;同じように重要な掟として「神さまを愛すること」「隣人を愛すること」が語られていますが、この第一、第二ということが大事です。まず、「神さまを愛すること」が「隣人を愛すること」と繋がっています。神さまを愛することのできない人間が、隣人を愛することなどできないのです。隣人とは、必ずしも私たちにとって心地よいばかりの人間だけではありません。なかには嫌いな人やウマが合わない人もいます。私たちは自分の力だけでは人を愛することなどできません。しかし、まず神さまが私たちを愛してくださったのです。だから私たちは神さまを愛することができます。神さまに愛され、愛することを学ぶのです。神さまは、人をその生まれや民族で、また女と男、子どもと大人、職業や人柄とかで分け隔てなさいません。すべての人間をありのままの姿で受け入れ、神さまの子として生きることができるように救いを完成なさいました。私たちは、その神さまから「愛」を受けているのです。自分も、隣人も、その愛に包まれています。だから、私たちも隣人を愛することができる、と語られているのです。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 9.65pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;また、隣人を愛することなしに、神さまを愛することはできません。神さまだけを愛していると言っても、隣人を愛さなければ、神さまを愛しているとは言えません。お互い、神さまに愛されている、ということを知った時、私たちはあらゆる障害を乗り越え、隣人と愛し合うことができるのです。どちらが欠けても、それでは不十分です。私たちがお互いに愛し合うのは、一人ひとりがイエスさまが生命をかけて愛してくださった生命だからなのです。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; align=&quot;left&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-ALIGN: left&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-SIZE: 9pt; FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ ゴシック&amp;quot;&quot;&gt;「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」イエスさまはこの二つの掟が律法のなかで第一と第二の掟だ、というのではなく、律法そのものなのだとおっしゃいます。長くて読むのに煩わしい、と私たちが思ってしまう「律法＝モーセ五書」も、つきつめれば、この二つの掟に集約されるのです。イエスさまは旧約を退け、違う教えを説かれたのではありません。ご自分でも「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;(マタイ5:17)とおっしゃっています。「律法や預言者」とは当時、旧約聖書のことを指しています。旧約の教えが「神さまを愛すること」「隣人を愛すること」に集約されるのです。そしてそれを理解する者に、旧約の成就として来られたイエスさまとの出会いが約束されているのです。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>礼拝</dc:subject>

<dc:creator>okazaki-church</dc:creator>
<dc:date>2009-05-29T21:01:24+09:00</dc:date>
</item>


</rdf:RDF>
