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「礼拝の開始」  エズラ記3章1~7節

エズラ記の3章には神殿を再建するためにエルサレムに帰ってきた人々が、礼拝を開始したことが記されています。バビロンから帰ってきた人々は、それぞれ自分の土地に帰り、生活を再建しなければなりませんでした。大変な苦労をしたと思います。その人々は、「第七の月に」エルサレムに集まってきました。 その人々の様子が「民はエルサレムに集まって一人の人のようになった」と記されています。 大変心惹かれる言葉です。しかし、ここで大切なことは、何をするために「一人の人のようになった」か、ということです。たとえば、野球の試合の応援をするということで、 多くの人々が「一人の人のように」なることはあります。そのことによって大きな喜びに満たされるということがあります。 しかし、それはその場限りの一時的なものにすぎません。

それでは、イスラエルの人々は、何をするために集まってきて「一人の人のようになった」のでしょうか。 2節から6節を注意深く読むと、「焼き尽くす献げ物」という言葉が6回も記されていることに気付くでしょう。このことから分かるように、イスラエルの人々は、「焼き尽くす献げ物」をささげるために「一人の人のように」なったのです。では、焼き尽くす献げ物を献げるとはどういうことでしょうか。当時の神への礼拝は、今日私たちが行っているものと大きく違っていました。私たちの礼拝の中心は、神の言葉です。神の言葉を歌い、神の言葉を唱え、神の言葉を聞きます。それに対して、このころのイスラエルの礼拝は、生け贄の動物をささげることが礼拝の中心でした。そして 「焼き尽くす献げ物」とは、神さまの愛に感謝して神さまに従って生きることを決意することを意味していました。「焼き尽くす」ということから、神さまに従わない部分を残してはいけないと考えることもできます。この部分は神さまに従うけれど、 こちらは自分の好きにさせて頂きます、というのではだめなのです。すべてを神さまに委ねるとき、神さまはすべてのことにおいて祝福してくださるのです。 そこにこそ神さまのもとから来る喜びに満たされるということが起こるのです。

エルサレムに帰ってきた人たちは、神殿を再建するために、まず礼拝を開始しました。神殿とは礼拝をする場所ですが、神殿が先にあるのではありません。6節には神殿の基礎はまだ据えられていなかった、と記されています。神殿に先立ってまず礼拝があるのです。礼拝が第一なのです。私たちは礼拝を後回しにしていないでしょうか。時間にゆとりができたら、気分にゆとりができたら礼拝しようと考えてしまっていないでしょうか。大きな困難に出会ってやっと神を礼拝する、というようなことがあるかもしれません。神をまったく礼拝しないよりはましと言えるかもしれませんが、神への礼拝を第一とすることが大切です。まず礼拝するための時間を捧げましょう。礼拝を通して神に出会い、人間にのみ寄りすがる生き方から解き放たれ、神のみ心を知り、いろんなことに取り組んでいけるのです。礼拝を第一とする信仰生活を守りたいと思います。

 


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