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『目を覚ましていなさい』  マタイ24:36~51

 36節の最初に「その日、その時」と言われているのは、終末の時、キリストが再びやってこられる時、すなわち再臨の時を指しています。その日時については父なる神さまだけが決められるのであって、たとえ天使であっても、そして「子も」と書かれているので、イエスさま自身も知らないのだとはっきり記されています。その日時をあたかも知っているかのように振る舞う人々もいます。天使たちも子も知らない、と言われることを、あたかも自分たちが知っているかのように考えるのは、とても傲慢で不遜な態度です。はっきり言えるのは、「何年何月何日に終末は来る」と人を惑わし集めた宗教家は、すべてが間違っていただけではなく、神さまのみ心に反していたということです。

37節では「人の子が来る」終末・再臨の時は、「ノアの時と同じ」であるとされています。ノアの洪水物語では、神さまは地上に悪がはびこるのをご覧になり、人間を造ったことを悔いて、世を滅ぼそうとされます。ただ、その時ノアとその家族だけが、神さまの「好意」を得て、箱舟をつくり、この洪水を逃れます。他の人々は、大きな箱舟をつくるノアを好機の目でとらえながらも、飲み食いし、日常を楽しんでいました。そして、神さまはある日大洪水を起こし、ノアとノアの家族以外の人間すべてを滅ぼされます。洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、彼らは何も気がつかなかったのです。42節の「目を覚ましていなさい」という言葉は、中世の教会以来、一生懸命良き行いをし、主に感心していただくことだ、と理解されてきました。しかしこれでは、イエスさまが語った最も大切な本質的な意味から外れてしまいます。「目を覚ましている」。それは、主に信頼し心を開き、主の約束を受け止めて、確かに終末の日がやって来るのだ、と認めることです。43節からの、泥棒が忍び込めないように、夜も眠らず目を覚ましている一家の主人という比喩を、人生の成績・業績に捕らわれたまま文字通りに受け取れば、キリスト者たる者、神経が休まる日はないでしょう。しかしこの「一晩中」という表現を、「一生涯変わらずに一つの姿勢を貫く」という意味に受けとめればどうでしょう。「目を覚ましている一家の主人」の姿は、神の言葉に従って箱舟を作るノアのように、主を信じる信頼の姿勢を生涯持ち続ける人、たとえ世界中に笑われても主が必ずおいでになるという立場を崩さない人の姿です。

つまり、「その日その時」が必ず来ることを認め、再臨のイエスさまを待ち続けること。他のどんなものも拠りどころとせず、ただ私たちを贖ってくださるキリストだけに希望を置くこと。そのことが「目を覚ましている」ことの内容なのです。「目を覚ましていなさい」といわれた時にわたしたちができるのは、ただ「主の再臨を待ち望むこと」だけです。それ以外に私たちにできることは無いのです。周囲がこぞって笑っても「この世に神などはいない」「なるようになるだけだ」と断言されても、無視されても、神がこの世界の仕上げをなさる時、この私を体ごと贖い尽くしてくださる時を待ち望み、その時が来るまで、私たちのために死んで復活なさったイエスさまに目を注いでいることが、「用意していること」です。暗闇の中でも、行き詰まりに見える時も、必ずその方から力をいただいて立っていることです。一晩中「寝ずの番をする」というのは、この姿勢を一生涯、崩さないでいることなのです。私たちは、自分が「忠実な僕」になれたかどうか、成績の採点に気を取られ、おろおろする必要はありません。その採点に心を奪われると、かえって偽善者になってしまいます。どんなに弱さや矛盾を自分の内に感じていても、それでもイエスさまの力で復活の命を注ぎ込まれて生かしていただいている。そう信じること。これが何より大事なことです。イエスさまは予想しない日、思いがけない時に帰って来られます。「あなたを父の家に迎える」と約束されたその方を信じて待ちましょう。

再臨の時、イエスさまは確かに裁き主としてもやって来られますが、イエスさまの到来は救いの完成のためのものなのです。その時、イエスさまは、自分たちの悪に気付かず、神さまの言葉に従わなかった人々のもとへも行き、救いを示してくださるはずです。なぜなら、イエスさまの十字架で贖われないような罪はないからです。しかし、そのことを信じて生きるか、信じないで生きるかでその人の人生は大きく変わってきます。主を信じ、平安と恵みに満ちた生涯を送りたいものです。本当は終末から先は、具体的にはよく分からないのです。「その日、その時が分からない」だけではなく、「その日、この私はどうなるのか」も不明なことばかりです。神さまはわざと詳細不明のまま「信じなさい」とおっしゃるのです。それに従うのが信仰だからです。ただし、詳細不明のまま信ずる、というのは、ただの盲信になりかねません。そうではなく、救い主イエスさまとの出会いによって、たとえ詳細がはっきりしていなくても信頼できるか-それだけのものを主キリストから受けたか-それがここで問われているのです。信頼、信仰を支えるのは愛です。キリストの愛を身に受けた人だけが「目を覚まして」いられるのです。

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