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『最も大切な掟』   マタイ22:34~46

ファリサイ派の人々は、イエスさまがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まりました。サドカイ派もイエスさまとの論争に負けた。ならば再びファリサイ派が、ということなのでしょう。今度は律法の専門家がイエスさまに対決します。彼はイエスさまを「試そう」として尋ねます。「試そう」という言葉は、イエスさまが公生涯に入られる前、荒れ野で四十日間悪魔の「試み」(誘惑)に遭われました。その時と同じ言葉が使われています。この箇所での意味は、「敵対的な問いかけ、陰謀」という意味になるでしょう。ある人は、「イエスさまの生涯は、試みられることとの戦い」ではなかったか、と言っています。確かに、そうでしょう。イエスさまは絶えず試みにさらされていました。しかし、イエスさまの復活は、その「試み」に対する勝利なのだと思います。

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」律法の専門家、と呼ばれているのですから彼らは律法学者だったと考えられます。その彼らが神さまが与えられた掟に、重要度をつけようとしているのでしょうか。それに対してイエスさまは答えられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」これは申命記6章5節にある「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉です。これが最も重要な第一の掟なのだとイエスさまは語ります。そして「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」レビ記19章18節後半の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という言葉です。

イエスさまが言われた「最も重要」とは、些細な掟に対する重要な掟、ということではありません。これは律法の(大いなる)原理を意味しています。「神さまへの愛」と「隣人への愛」が一番、なのではなく、「神さまへの愛」と「隣人への愛」によって律法は成立する、ということの重要性が語られているのです。どちらか一方では成り立たないのです。イエスさまも「第二も、これと同じように重要である。」第一のものと‘同じように’重要であるとおっしゃっています。マタイによる福音書は、この出来事を単なる論争として取り扱うのではなく、イエスさまの宣言として捉えているのです。そして、このことは、そうであればそうであるほど、このイエスさまの言葉に対して、「どう聞き、どう応えるのか。」が問われているのです。

イエスさまの言葉はまさに「福音の凝縮」です。そこには“愛なる神”が満ちています。そしてそれは私たちに迫ります。「愛の欠如の危機」が、今を生きる私たちを襲っています。人はいよいよ自己中心的に物事を考え、自分の都合の良いように為すべきことを決定していきます。本来、その中心におられるのは神さまです。しかし、人はその罪ゆえに、神のおられるはずのところに、自分を、人間を置いてしまったのです。聖書はそこから自分を解放し、神さまを愛しなさいと言っています。神さまを愛することによって、私たちお互いの中にも愛が生まれるのです。そして私たちの内に愛がなければ、それは神さまを愛することにはならないのです。私たちに必要なこと。それは、神さまを神さまのいるべきところにおく、ということです。イエスさまは第一の重要な掟として「神さまへの愛」を説かれました。そして第二。これは第一に続く第二、という順序や序列づけで言っておられるのではありません。「次に言うのもそれと同じことだが」という言い方で言われました。

同じように重要な掟として「神さまを愛すること」「隣人を愛すること」が語られていますが、この第一、第二ということが大事です。まず、「神さまを愛すること」が「隣人を愛すること」と繋がっています。神さまを愛することのできない人間が、隣人を愛することなどできないのです。隣人とは、必ずしも私たちにとって心地よいばかりの人間だけではありません。なかには嫌いな人やウマが合わない人もいます。私たちは自分の力だけでは人を愛することなどできません。しかし、まず神さまが私たちを愛してくださったのです。だから私たちは神さまを愛することができます。神さまに愛され、愛することを学ぶのです。神さまは、人をその生まれや民族で、また女と男、子どもと大人、職業や人柄とかで分け隔てなさいません。すべての人間をありのままの姿で受け入れ、神さまの子として生きることができるように救いを完成なさいました。私たちは、その神さまから「愛」を受けているのです。自分も、隣人も、その愛に包まれています。だから、私たちも隣人を愛することができる、と語られているのです。

また、隣人を愛することなしに、神さまを愛することはできません。神さまだけを愛していると言っても、隣人を愛さなければ、神さまを愛しているとは言えません。お互い、神さまに愛されている、ということを知った時、私たちはあらゆる障害を乗り越え、隣人と愛し合うことができるのです。どちらが欠けても、それでは不十分です。私たちがお互いに愛し合うのは、一人ひとりがイエスさまが生命をかけて愛してくださった生命だからなのです。

「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」イエスさまはこの二つの掟が律法のなかで第一と第二の掟だ、というのではなく、律法そのものなのだとおっしゃいます。長くて読むのに煩わしい、と私たちが思ってしまう「律法=モーセ五書」も、つきつめれば、この二つの掟に集約されるのです。イエスさまは旧約を退け、違う教えを説かれたのではありません。ご自分でも「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)とおっしゃっています。「律法や預言者」とは当時、旧約聖書のことを指しています。旧約の教えが「神さまを愛すること」「隣人を愛すること」に集約されるのです。そしてそれを理解する者に、旧約の成就として来られたイエスさまとの出会いが約束されているのです。

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