『最 後 の 者 か ら』 マタイによる福音書20章1~19節
イエスさまのたとえは、極端な筋立てのものが多いと言われます。このたとえは最も甚だしい一例と言えるでしょう。不公平な賃金の支払いは、主人の「気まぐれ」と言われても仕方ないと思います。12節で主人に不平を言う、最初に雇われ夜明けから働いていた人たちは、実績から言えば、その労働時間は日没直前に雇われた人たちの12倍です。最初に雇われた人たちの言うように、日照りと熱風を我慢して、余分に汗を流しているのです。この世の事柄についてなら、この人たちの不平は当然で、怒るのが当たり前です。しかし、この実績と報酬という原則が通らない世界が一つあります。それが、イエスさまの教えてくださる「天の国」なのです。マタイによる福音書では、イエスさまのたとえ話の多くが「天の国」を説明するための、たとえとして記されています。この「ぶどう園の労働者」のたとえも同じです。これはマタイにだけ記されているたとえで、マルコやルカにはありません。19章27節のペトロの言葉、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」いっさいを捨てて、イエスさまに従った自分の報酬を問う、ペトロの心を戒められたもののようにも考えられます。イエスさまは、「自分こそいっさいを捨ててイエスさまに従っているなどと誇っていると、かえって後まわしになりますよ。」と注意しておられるのです。
「1デナリオン」は当時の労働者が一日の労働に対して与えられる賃金の相場ですから、雇われた人たちは決して安く雇われたのではないのです。朝以降に雇われた人たちには賃金の額が定められておりません。「ふさわしい賃金」とのみ記されています。 たとえの主人の賃金の支払い方は、この世では不公平と言われるでしょう。朝から働いた者が不満を言うのは当然です。彼らは丸一日、暑い中を辛抱して働きました。一日中働いた彼らは、放蕩息子の兄のように苦々しい不満を抱きます。彼らは神さまの報いを自分の労働時間に換算したところに誤りがあります。神さまは人を全く別の視点からご覧になります。誇るべき成果のない者も、神さまの救いの中にあるのです。またこの主人は、よく考えるとそれほどに不公平なのでしょうか。彼はこう言います。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」(v.15)ぶどう園の主人は労働者たちに対して、彼らの功績に基づいてではなくて、自分自身の憐れみの念に基づいて支払う、という権利を主張しています。早朝から働いた人たちとの約束はきちんと守られているのです。彼らの賃金を削って、朝以降から働いた人たちに1デナリオンが支払われたわけではありません。このような気前よさがいったいどうして不公平として非難されるのでしょうか。
私たちは一旦罪に死んだ者です。しかし私たちには清い生命を授けて生かされる道が開かれているのです。死と墓場で終わらない生命、すなわち永遠の生命が与えられているのです。これに対しては、「私の方が資格と実績がある」というこの世の当たり前のルールは通りません。それくらい「罪と死」は、すべてを無効にしてしまいます。イエスさまは、この救いの次元では「労働の実績はあってもそれはどんぐりの背比べのようなもの。生命をいただけるのは、恵みとして受けるだけ。神さまの憐れみに気付いた人だけ。」という霊の世界の原則を、この乱暴なまでのたとえを使って、私たちに教えようとしているのです。創造者たる神さまは、人間が信じられないくらい度量が大きいのです。このような神さまを礼拝する人々は、神さまの寛大さを見習うべきなのであって、それに対して不平を言うべきではありません。「天の国」では、この世の尺度は意味を失います。私は誰よりも清く生きたとか、人に尽くしたとか、他の人よりも長い間に多く奉仕したとか、伝道したとかは、全部度外視されているのです。報いはあっても、それは、私たちの計算や取引ではありません。ひょっとして、私たちの信仰にも、ペトロのように計算が入ってきていないでしょうか。身の回りでは、親子の愛情から信仰・教会生活に至るまで、案外根底にあるのは、電卓ではないと言いきれるでしょうか。そんな世の中にあって、意味を持つことはただ一つです。それはイエスさまを通して示される、父なる神さまの恵みを喜んで受ける信仰です。
信仰によってどれだけ試練に耐えたか。苦しい病気にも潰れないで顔を輝かせているか。そういう力強い証しはどれも貴重なものです。そのように高貴に生きた方への尊敬を忘れることはありません。それは神さまの業以外の何ものでもありません。しかし、その証が、実績を持たない者の信仰より、ほんの少しでも価値を持つと思った瞬間、せっかくの感動は、「先にいる者」と「後になる者」との比較に変わってしまいます。夜明けから働いて真昼の日照りや熱風も耐えて働いた人と、日没直前に雇われ半時間しか働かなかった人とは同じにはならない、というのは肉の世界の価値判断です。イエスさまの語る「天の国」では通用しません。病と戦って信仰で勝った人や、誰よりも人に尽くし、誰よりも奉仕した人と、自分を比べてはなりません。そのような「先にいる者」と自分を比べて自信喪失する必要はありません。たとえ私たちが「最後に来た者」であっても、神さまは劣らぬ愛を与えてくださいます。私たちがいただいた恵みを素直に喜べばよいのです。


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