『復活の希望』 コリントⅠ 15:20~28
キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」(コリントⅡ15:17~19)
イエスさまが十字架上で息をひきとられたのは午後3時頃、金曜日のことでした。その夕方には、遺体は横穴式の墓に安置されました。土曜日はユダヤ教の安息日に当たります。ユダヤの一日は日没から数えられますから、遺体は大急ぎで埋葬されました。安息日には墓参りはひかえられ、イエスさまが亡くなられて3日目の日曜日の早朝、女性の弟子たちが遺体に香料を塗るために墓に行ったところが、墓にはイエスさまの遺体がなく、復活されたイエスさまにお会いし、墓地は喜びの場に変わったのです。このイエスさまの復活という出来事は、初めて聖書を読む人にとっては躓きであり、事実とはとうてい考えられず、全く信じがたい作り上げられた物語だと思われることを、私も十分よく承知しています。私自身も、最初は「作り話」だと思いました。けれども、やがて聖書の言葉に親しむうちに、復活のイエスさまと出会い、心から信じられるようになりました。
イエスさまを殺された弟子たちは迫害を恐れて散り散りになりました。「イエスはキリスト(救い主)である」などという主張は、誰にも相手にされなかったはずですし、他でもない弟子たち自身が、そんなことを信じられない、とういような心理状態であったはずです。しかし、復活の事実によって、その状況は一変しました。復活のイエスさまに出会った弟子たちは、迫害に屈せず、その教えは国境を超えて広まり始めました。その原動力は『復活の希望』だったのです。
さて、世の終わりにおける死者たちの復活については、旧約にもほのめかされていますが、新約では、イエスさまの復活を「初穂」として、信じる者すべてに確約されています。コリントの信徒への手紙一15章はこのことをはっきりと言いきっているのです。特に20節をご覧ください。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」愛する者の死に直面した時、遺族にとって最大の希望は、この「復活の希望」です。死によって霊魂が離れ去った肉体は朽ちます。火葬であれ土葬であれ水葬であれ、この点大差はありません。しかし、世の終わりにおいて、その人の体はよみがえり、しかも現在のような、やがて朽ちざるをえない弱さにまとわれた体ではなく、復活のキリスト同様の「栄光のからだ」に復活させていただくのです。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:21) 神さまは人知を越える、そのみ力によって、新しい体を再び創造なさり、霊と再び結合させて、死者をよみがえらせてくださるのです。
人間は、神さまの前に完全ではありません。アダムとエバが善悪を知る木の実を食べたという原因物語から、私たちが非常に自己中心的で利己主義で、また自ら神のごとく生きている存在であることが明らかにされています。そんな私たちにとって、「死」とは永遠の裁きなのです。しかしイエスさまが私たちのところに来てくださいました。それは「キリストによってすべての人が生かされることになる」ためでした。イエスさまが、私たちと神さまとの妨げになっている罪の問題を解決され、裁き滅ぼされるべき人間が、赦され生かされる者と変えてくださったのです。イエスさまの十字架によってすべての人が滅びをまぬかれることになりました。イエスさまは、私たちの代わりに、「罪の報酬である死」を、それがもたらす苦しみを、自ら受けてくださったのです。そして最後の敵として、「死」が滅ぼされ、イエスさまは復活されました。「神は、すべてをその足の下に服従させた」とあるように。このイエスさまの十字架を仰ぐ時、私たちに永遠の命が与えられました。「永遠」というのは、いつまでも死なないという意味ではありません。人間誰もが死を避けることはできません。どんなに元気な人でも必ずいつかは死んでしまいます。イエスさまが与えてくださった永遠の命とは、神と共に生きる命です。その命は滅びを知りません。それが与えられた私たちにとって、死とは「終わり」ではなく「世における使命の終わり」を意味するのです。神さまに生かされている人は、自分の命が偶然ではなく、神さまのご計画のうちにあるということを知っています。死とは、この世の務めを終え、神さまのみ手の中に迎えられた人たちです。今、生きている私たちも、やがてはこの世の務めを終え、そして死を迎え、この安らかな眠りに導かれるでしょう。
私たちに大事なことは、テサロニケの信徒への手紙一にパウロの祈りとして記されていることです。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(テサロニケの信徒への手紙5章23節) やがては終末を迎える私たち。眠りについた人々の初穂となられたイエスさまが、私たちの罪を贖い、永遠の命、神と共に生きる命を与えてくださるのです。この贖いからもれる人は一人もいません。だから「復活の希望」は死がもたらす悲しみを、取り去ってくださるのです。


Comments