『偽善者に対する警告』 マタイ15:1~20
イエス様と弟子たちがガリラヤ湖北西岸のゲネサレトという町に滞在していた時のこと。そこまで「エルサレム」からわざわざ足を運んだのが「ファリサイ派の人々と律法学者たち」でした。イエス様の宣教活動がいかに彼らにとって「目障り」という程度を越えて、双方の対決姿勢がいよいよ鮮明になり、イエス様のガリラヤ伝道の末期が近いことを窺わせています。彼らはイエス様に挑むきっかけとして、食事の前に手を洗わない弟子たちの態度を挙げて非難しました。これは予備知識なく読めば、衛生上の問題のように感じるのですが、ここではそういったことが論じられているわけではありません。彼らは食事の前に手を洗いました。手だけではありません。彼らは市場などに出た後、帰って来てから体中を洗います。多くの異邦人とすれ違ったり触れたりして、身を汚すと考えていたからです。食事の前に手を洗うのも、料理のたびごとに一定の方法に従って洗うのです。洗うための水は別に取っておき、最初両手の指先を上に向けて手首まで流すといった、細かいやり方に従います。カナの婚礼で、イエス様が水を葡萄酒に変えた個所には「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。」とあります。それがこの清めのための水です。しかし、イエス様は、この清めのための水を葡萄酒に変えられました。それは無意味な形式主義に対する、十字架の血のしるしである葡萄酒にです。つまり形式的な清めの水を、神のみ子が私たちを愛してくださるいのちに変えてくださったのです。
さてイエスは、ファリサイ派の人々と律法学者たちにお答えになりました。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。イエス様は、律法学者やファリサイ派の人たちが「言い伝えを破るのですか」と言ったことに対して、「神の掟を破っているのか」と反問し、切り返されました。イエス様が「神の掟」として引用されたのは、モーセの十戒の第五戒、「あなたの父母を敬え。」です。この第五戒は子どもが両親への経済的な扶養義務を負うことを含む教えです。親に対する扶養義務について、ファリサイ派の人たちは「あなたに差し上げるべきものは、コルバンです。」---“コルバン”とはアラム語で「神さまへの供え物」---と言えば扶養義務から逃れることができるとしていました。「神さまに供えました」といえば、それは神さまのものだから、この世に用いてはならないと言い張り、結局のところ、戒めをつなげて言葉の遊びのようにごまかして、父母を敬うことをないがしろにしていたのです。信仰者は下手をすると、敬虔に見せるために言葉遊びや、つまらぬ体裁をつくろうことがないと言えるでしょうか。神さまはそんな辻つま合わせよりも、現実の矛盾の中で、辻つまが合わずに苦しむ信仰者の方を、喜ばれるでしょう。
ファリサイ派の人々と律法学者たちが陥っていたように、とにかく言葉が多く説明が多岐にわたる時ほど、内容が乏しいものです。そこには結局、イザヤが言うように、唇で神さまを敬うが、心では神さまから遠く離れている現実がないでしょうか。信仰は、弁解や説明ではないはずです。信仰は、生きて働く神さまに対する感謝と喜びの応答です。そして信仰は、神さまへの愛です。イエスさまは、ファリサイ派や律法学者たちが複雑にしてしまった戒め(律法)を「神さまを愛すること・自分のように隣人を愛すること」とまとめられました。律法は、自分の生き方を良く見せるための言い訳や、体裁を整えるためにあるのではありません。律法とは「神と人への愛」につきます。私たちはイエスさまに導かれて、その愛を受け、神と人とを愛する者に変えられていくのです。
確かに信仰にとって、形式もないがしろにできませんが、ファリサイ派や律法学者たちは、外側をつくることに汲々とするあまり、内側を忘れていました。しかし、形は内なるものを表していなくては無意味です。それが神さまに仕える形であってこそ、重要なのです。「口に入るもの」つまり食べ物は、あくまでも食べ物です。たとえ、戒めに照らした時に必ずしも清いものでなく、また汚れた手で食べたとしても、口に入るもの:食べ物は、体を養って通過していくだけのことです。しかし、「口から出るもの」つまり、言葉や行為は、自分自身がすでに心の内に抱えているものから出ているのです。悪意や殺意に満ちた言葉、姦淫やみだらな行い、盗み、偽証などの行為は、人から出た時に、また新たな悪意、殺意、姦淫、盗み、偽証などを引き起こします。それが「人を汚す」のです。
口から出て人を汚すものは全部、神の子の血で清め尽くされました。だからこそ今、わたしたちの口から発する言葉から呪いや不満を取り除かれるように祈りましょう。


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