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子どもの教会礼拝(パンの日)

 3月30日(日)子どもの教会では、イエスさまが荒野で群衆とパンを裂いて分かち合った出来事をおぼえて、パンの日の礼拝を守りました。

 子どもの礼拝で、2匹の魚と5つのパンの奇跡のおはなしを聴きました。

Fishbread

  そして、その後の合同分級では、礼拝堂の前の方に座布団をしき、大人も子どもも車座になって座りました。

 その中心にすえられたのが魚の形をした大きなパン。みんなで祈りをあわせた後、牧師がパンを裂いて、パンをみんなで分かち合いました。

Bread

 

 この魚の形のパンは、新城市作手清岳にある
高原のパン屋『麦の家』さんにお願いして作って
いただきました。
 とってもおいしかったですよ。bread

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『この人は神の子だった』  マタイによる福音書27章45~56節

 イエスさまの宣べ伝える内容は、当時のファリサイ派の人たちや祭司たち
の生き方を根底から覆すものでした。その結果、イエスさまは捕らえられま
した。その後、ユダヤの裁判で、神を冒涜し民衆を惑わしたという罪で有罪
とされ、ローマの総督ポンテオ・ピラトの前に引かれていきました。ピラト
はイエスさまには罪はないと判断しましたが、ユダヤの群集に圧されて、死
刑、すなわち十字架刑に処するために引き渡してしまいました。エルサレム
に入城された時、町はイエスさまを迎えた群集の歓喜の叫びでわきましたが、
ほんの数日後には、同じ群集の「十字架につけよ!」という叫びに埋めつく
されてしまいました。

イエスさまは、二人の罪人と共に十字架につけられました。荒削りの十字
架に手と足を釘で打たれ、その十字架をたてると、全体重が打たれた傷にか
かるのです。そして死ぬまでそこで見せしめのために放っておかれるという
むごい刑でした。当時のローマの中でも極刑とされていました。十字架にか
けられてからも、イエスさまは祭司長たちや律法学者たちや長老からも、さ
らに一緒に十字架につけられている強盗からまでも、侮辱を受けられました。
しかし、イエスさまはそれらの侮辱を黙って受けられました。彼は十字架を
降りませんでした。降りることもできたと思いますが、イエスさまは、全て
の罪をその身に負い、私たちに代わって、神の裁きである死を迎えようとさ
れていたのです。

マルコによる福音書によると、イエスさまが十字架につけられたのは午前
9時頃。やがて昼の12時になり、全地は暗くなりました。それが3時間続
いたといいます。十字架の上の苦しみが続いて約3時間後、イエスさまは大
声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、
わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。この叫
びは、イエスさまがあの十字架の苦しみと悲しみを洩らされた絶叫のように
思えるのです。もちろん神の子キリストが「神に見捨てられる」とは矛盾し
ているように思えます。イエスさまは一瞬たりとも、父なる神から離れるこ
とのない神の子でした。しかし、そのイエスさまが私たち人間の罪を引き受
けて神の前に立たれた時、ありえない事が起こったのです。罪のないはずの、
清い神の子が十字架にかけられ、神さまから切り離されるという、切断と暗
黒の恐怖を味われたのです。それは、本来なら私たちが受けるはずの罪の呪
いでした。本当は、私たちがそこで絶望と恐怖の悲鳴を上げるはずでした。
ですから「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は私たち人間の味わわなければ
ならない恐怖を一人で受けてくださった方の叫びなのです。本当なら、私た
ち人間が叫ばなければならない叫びを、イエスさまは、私たちに代わって叫
ばれたのです。

 イエスさまは大声で叫ばれた後、息をひきとられました。今日の聖書の箇
所には、「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たとあ
ります。この神殿の垂れ幕とは、一年に一度、大祭司しか入ることのできな
い、神の箱が安置されている至聖所とその他の聖所を隔てる垂れ幕の事で、
これがイエスさまの死と時を同じくしてまっぷたつに裂けました。それはキ
リスト者にとって、この垂れ幕が裂けたことで、神と私たち人間の間を隔て
ていたものがなくなった事をさしています。私たちは、その事により、直接
に何の制限もなしに神に近づき、イエスさまの十字架の死を通して完成され
た罪の赦しに与れるようになったのです。

さて、この十字架の出来事を見ていた百人隊長は「本当に、この人は神の
子だった」と告白しています。この言葉は、エルサレムでのイエスさまの姿
を見てきた、そして十字架での最後を見届けた、この異邦人である百人隊長
の口をついて出た言葉だと思います。イエスさまの生き方と死に方を見届け
た百人隊長の、実感した思いだったのではないでしょうか。異邦人である百
人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言いましたが、十字架上のイ
エスさまの姿は、イスラエル人にとって、とても神の子とは思えない哀れな
姿です。

しかし今、私たちはまさにその姿の中に、私たち人間への神さまの愛を見
るのです。神は罪を裁かれる方です。罪のない人間は一人もいません。イエ
スさまなしでは人間は誰一人、神の国へは行けないでしょう。イエスさまは、
裁かれるべき私たちの罪を背負って十字架にかかられたのです。その姿が真
の「神の子」なのです。神さまは、イエスさまを私たち人間の全ての罪の贖
いとして、召されました。私たちを赦し生かすために、イエスさまをあえて
見捨てられ、罪人が味わうべき苦しみをみ子に負わせられました。それは、
神さまの愛を示しています。自分の力では、罪をなくし神の子たる生き方が
できない私たちを救うために、イエスさまの十字架が必要だったのです。私
たちは今、こうして贖われた生命を生きています。これらは全て、イエスさ
まの十字架のおかげなのです。

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子どもの教会イースター

3月23日(日) きょうはイースター。chick

子どもの教会では、礼拝をまもったあと合同分級でゲームをしました。
教会のあちこちに散らばって礼拝準備中の大人たちのうち、指定の人を
探して、その人があずかっている封筒を集めるというゲームです。

「イースターおめでとう」とあいさつを交わしてから、封筒を受け取ります。
封筒の中からは、イエスさまのご受難と復活のものがたりを表した絵画が
出てきました。

Easter1 その絵画を礼拝堂の壁にならべて、イエ
スさまの受難から復活までのおはなしを
リーダーからお聴きしました。

 絵画は中高科の子どもたちが色づけを
して、枠をつけたものです。段ボールを利
用した枠ですが、とってもステキにできあ
がっています。

Easter2 合同分級のあとには、ひとりにひとつイースターエッグが手渡され、ゲームを楽しみながらもイースターの出来事を学ぶことができ、イエスさまのご復活の喜びを分かち合うことができました。

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『最初の弟子たち』   出エジプト記18:13~27 使徒言行録16:1~5

 最初の弟子たちは、このイエスさまに従い、初代教会をつくりました。別に人より抜き
ん出て才能があったわけではありません。平凡な、いやむしろ貧しく小さな弱い人たち
でした。その歩む道の行く手には、絶えず困難が伴いました。時は教会にとって迫害の
激しい時代です。理解されない苦しみと、その信仰ゆえに命を狙われる危険が、絶えず
彼らを脅かしていました。しかし、彼らは大きな働きをなしたのです。見事に神の業に
用いられたと言えるでしょう。

旧約の時代のモーセも同じように神に召されました。彼自身はイエスさま
の最初の弟子たちと同じように、小さな弱い不器用な人間でした。そんな
モーセがイスラエルの民を率いて、出エジプトを行ったのです。無謀な企て
とも言えるでしょう。
エジプトからパレスチナまで、なんと40年もかかったといいます。それだ
け旅は困難を極めたのでしょう。聖書はその間、モーセがまとまらない民に
戸惑いながら荒れ野を旅する様子を記しています。旅の困難は物理的なもの
だけではなく、その群れの状態が原因であったようです。

 モーセの仕事は多忙を極めていました。群れを裁く責任が、彼一人に集中
したのです。多くの民を率いて旅をするのですから、実際に微にいり細にわ
たって彼が判断したとは思えませんが、民の裁きの責任が、彼に重くのしか
かっていました。人々はモーセの裁きを仰ぐため、列をなして押し寄せてい
ました。もとより器用な人間ではありません。神の召命を受けた時、頑固に
拒み続けた経歴をも持っています。彼自身、指導者として民の前に立つのな
らば、自分の話し下手なところが致命的だ、と思ったからでしょう。にもか
かわらず神さまはアロンという助け手を与えて彼を民の前に立たせました。
かくしてイスラエルは寄留の地であるエジプトを出発しました。エジプト王
であるファラオの追っ手をふりきっての逃亡でした。

 途中、モーセは旅の困難につぶやく民に手を焼きながらも、神さまの助け
を得ながら道を行きました。しかし、誰もその責任を分かち合おうとする者
がいなかったことが、彼を悩まし続けました。ある日、彼の舅であるエテロ
が訪ねてきます。エテロはモーセのやり方を見て、「どうしたことか」と思
います。そしてモーセに助言するのです。

 モーセよりも人生経験が豊かであったエテロは、責任と役割を分担する事
を提案します。「千人隊長」「百人隊長」「五十人隊長」「十人隊長」を立
て、普段の民の裁きを担わせるようにとアドバイスするのです。モーセ独り
に民を率いる責任を負わせないで、仕事を分担させる事によって、彼の負担
を軽くする方法です。神さまの命令がモーセの上にあるならば、そのような
やり方で、神さまは彼を任に堪えるようにしてくださると言うのです。
モーセはエテロの言う事を聞き入れました。その結果、すべてがうまく行っ

たとは言えません。それ以後も、やはり様々な問題が群れに起こりました。
しかし、モーセ自身も民も、疲れ果てることを免れ、約束の地を目指す事が
出来たのです。

 神さまはモーセにエテロを遣わし、指導者の力にまかせて民を率いるので
はなく、人々が共に労し、役割を担い合う中に、神さまの導きを見出す群れ
を起こされたのです。強烈なリーダーシップでは確かに人を魅了するかもし
れません。しかし、キリスト者の群れは、指導者一人の人柄や才能に率いら
れるものではありません。
人々が真の神を尋ね求め、神の業に召されて、その働きを担い合う群れなの
です。

 もう一つ大事な事が、聖書の箇所から学べます。それはモーセが舅の助言
を聞き入れたことです。助言はしばしば批判として受け取られます。エテロ
も「あなたのやり方は良くない」とはっきりモーセを批判しています。モー
セが傲慢な思いに捕らわれていたら、エテロの助言は空しく退けられていた
ことでしょう。年長者である舅の言葉を軽んじていたら、モーセはなお自分
のやり方に固執し、民は収拾つかない状態に陥っていたでしょう。彼が神さ
まの召命をなんとか逃れようと拒み続けたエピソードが出エジプト記3章以
下に記されていますが、彼の自信のなさが功をなした、という言い方も出来
るかもしれません。いずれにせよ、自己を絶対化する時、私たちは自分のや
り方を修正する余裕を失っていると言えるでしょう。

神さまは決して人間一人の力に負うのではなく、一人ひとりを器として用
いてくださりみ業をなされる、という事。お互いがその働きを担い合うこと
によって責任を分担し、人が、そして人々が、疲れ果ててしまうことがない
ように導いてくださっている。という事。祈りに適って助言を与え、まずい
やり方を改める機会を用意してくださる。という事をみ言葉から指し示され、
心に留めたいと思います。
そして最初の弟子たちに続いて、主の招く声に身を捧げたいと思います。

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