『この人は神の子だった』 マタイによる福音書27章45~56節
イエスさまの宣べ伝える内容は、当時のファリサイ派の人たちや祭司たち
の生き方を根底から覆すものでした。その結果、イエスさまは捕らえられま
した。その後、ユダヤの裁判で、神を冒涜し民衆を惑わしたという罪で有罪
とされ、ローマの総督ポンテオ・ピラトの前に引かれていきました。ピラト
はイエスさまには罪はないと判断しましたが、ユダヤの群集に圧されて、死
刑、すなわち十字架刑に処するために引き渡してしまいました。エルサレム
に入城された時、町はイエスさまを迎えた群集の歓喜の叫びでわきましたが、
ほんの数日後には、同じ群集の「十字架につけよ!」という叫びに埋めつく
されてしまいました。
イエスさまは、二人の罪人と共に十字架につけられました。荒削りの十字
架に手と足を釘で打たれ、その十字架をたてると、全体重が打たれた傷にか
かるのです。そして死ぬまでそこで見せしめのために放っておかれるという
むごい刑でした。当時のローマの中でも極刑とされていました。十字架にか
けられてからも、イエスさまは祭司長たちや律法学者たちや長老からも、さ
らに一緒に十字架につけられている強盗からまでも、侮辱を受けられました。
しかし、イエスさまはそれらの侮辱を黙って受けられました。彼は十字架を
降りませんでした。降りることもできたと思いますが、イエスさまは、全て
の罪をその身に負い、私たちに代わって、神の裁きである死を迎えようとさ
れていたのです。
マルコによる福音書によると、イエスさまが十字架につけられたのは午前
9時頃。やがて昼の12時になり、全地は暗くなりました。それが3時間続
いたといいます。十字架の上の苦しみが続いて約3時間後、イエスさまは大
声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、
わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。この叫
びは、イエスさまがあの十字架の苦しみと悲しみを洩らされた絶叫のように
思えるのです。もちろん神の子キリストが「神に見捨てられる」とは矛盾し
ているように思えます。イエスさまは一瞬たりとも、父なる神から離れるこ
とのない神の子でした。しかし、そのイエスさまが私たち人間の罪を引き受
けて神の前に立たれた時、ありえない事が起こったのです。罪のないはずの、
清い神の子が十字架にかけられ、神さまから切り離されるという、切断と暗
黒の恐怖を味われたのです。それは、本来なら私たちが受けるはずの罪の呪
いでした。本当は、私たちがそこで絶望と恐怖の悲鳴を上げるはずでした。
ですから「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は私たち人間の味わわなければ
ならない恐怖を一人で受けてくださった方の叫びなのです。本当なら、私た
ち人間が叫ばなければならない叫びを、イエスさまは、私たちに代わって叫
ばれたのです。
イエスさまは大声で叫ばれた後、息をひきとられました。今日の聖書の箇
所には、「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たとあ
ります。この神殿の垂れ幕とは、一年に一度、大祭司しか入ることのできな
い、神の箱が安置されている至聖所とその他の聖所を隔てる垂れ幕の事で、
これがイエスさまの死と時を同じくしてまっぷたつに裂けました。それはキ
リスト者にとって、この垂れ幕が裂けたことで、神と私たち人間の間を隔て
ていたものがなくなった事をさしています。私たちは、その事により、直接
に何の制限もなしに神に近づき、イエスさまの十字架の死を通して完成され
た罪の赦しに与れるようになったのです。
さて、この十字架の出来事を見ていた百人隊長は「本当に、この人は神の
子だった」と告白しています。この言葉は、エルサレムでのイエスさまの姿
を見てきた、そして十字架での最後を見届けた、この異邦人である百人隊長
の口をついて出た言葉だと思います。イエスさまの生き方と死に方を見届け
た百人隊長の、実感した思いだったのではないでしょうか。異邦人である百
人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言いましたが、十字架上のイ
エスさまの姿は、イスラエル人にとって、とても神の子とは思えない哀れな
姿です。
しかし今、私たちはまさにその姿の中に、私たち人間への神さまの愛を見
るのです。神は罪を裁かれる方です。罪のない人間は一人もいません。イエ
スさまなしでは人間は誰一人、神の国へは行けないでしょう。イエスさまは、
裁かれるべき私たちの罪を背負って十字架にかかられたのです。その姿が真
の「神の子」なのです。神さまは、イエスさまを私たち人間の全ての罪の贖
いとして、召されました。私たちを赦し生かすために、イエスさまをあえて
見捨てられ、罪人が味わうべき苦しみをみ子に負わせられました。それは、
神さまの愛を示しています。自分の力では、罪をなくし神の子たる生き方が
できない私たちを救うために、イエスさまの十字架が必要だったのです。私
たちは今、こうして贖われた生命を生きています。これらは全て、イエスさ
まの十字架のおかげなのです。
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