『天に富を積む』 マタイ6:19~24
ルカによる福音書では、「富を天に積む」とは「自分の持ち物を売り払って
施す」事だと記されています。しかし、マタイはそれを採用していません。
マタイのいう「富」は、単に経済的な蓄財だけではなく、人の評価とか虚栄
心も入っています。イエスさまは「地上に富を積んではならない」とおっしゃ
いました。これは決して多く持つ事がいけないと言ってはいません。多くを
持って、それで神に仕える事もあり得るし、逆にまた、少ししかないために
貧欲になって、富の虜になる場合もあります。富む時にも、貧しい時にも、
富の誘惑は私たちに迫ってきます。富を所有したいという願望が、私たちの
心の瞳を濁らせてしまうのです。私たちは、自分の所有から自由になれるで
しょうか。自分が所有しているのだから。自分が計画をたてて主体的に貯め
ているのだから、自分が主人であると考えます。「所有する」ということに
自分が縛られるはずはない。と誰もが一度は考えます。しかしこれは逆にな
るのです。地上の富みに縛られる。目がくらまされて視界から神さまが消え
てしまう。自分の得た富みに仕える奴隷となってしまうのです。これは人間
に罪がある限り、避けることが出来ない誘惑でしょう。イエスさまに捕らえ
られて、初めて、自由への道が見え始めるのです。
地上に蓄えられた富は「虫が食ったり、さび付いたりする」。この虫は木
食い虫のようなものらしく、「長持ち」のような木製の箱を食い破ったそう
です。さびは、鉄の箱でも長年かけて浸食してきます。どんなに大事に保存
したものでも永久ということはありません。イエスさまは、地上の富が不安
定で不確かだという事を言っておられるのです。「富は、天に積みなさい。」
イエスさまはそうおっしゃいます。ここで注意が必要です。ある人は、善い
行いによって、天の銀行に口座を作って貯蓄することのように解釈しがちで
すが、それは正しい理解とは言えません。「積みなさい」と書いてあります
が、これは人間が自分の力や功績で積めるようなものではありません。そし
て「天の富」とは神さまが備えてくださるものです。神さまが備えてくださっ
たものに目が開けて、それをわが宝とすることを、「天に富を積む」と表現
したのでしょう。その宝が何かは今ここでは語られません。そして、「あな
たの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と言われています。これ
は「あなたの心が何処にあるのか、それがあなたの宝の所在を決める」と言
う事を裏返しの言葉で強烈に表現した言葉だといえるでしょう。「天に口座
を開いて善行を貯めておけば、心も安らかだ」というような意味ではありま
せん。神さまの業に、教会の業に、心があるならば、私たちは惜しみなく捧
げます。自分たちの富を確保した上で余った分を捧げるようなことはしませ
ん。私たちは自分が神さまから贖われた生命である事を知っています。与え
られたものはすべて神さまからいただいたものだという信仰に立っています。
だから、自らすすんで喜んで捧げる事ができるのです。
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その
暗さはどれほどであろう。」ここでは、体は人格としてのその人を代表して
おり、目は、神さまをしっかりと見つめる能力。神さまの光を、人間として
の自分の中に受け入れる「光の取り入れ口」とでも言うのでしょうか。光の
取り入れ口が澄んでいれば、内側は射し込む光で満たされます。だから「目
が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」のです。そのような目は、イエス
さまを知ってから初めて持てる目なのですが、それがないと私たちは底無し
の暗黒にいなければなりません。しかし、この目は誰であろうと必ず持てる
ものです。けれど、自分の罪に目が開けて、そして、イエスさまの流された
血だけが私たちの罪を清めるという事実をはっきりと見極めるまでは、肉の
ままの人間には持てないものです。どうしてもこの世の煩いが目に入ってき
ます。せいぜい何かに重なって、時々神さまが見える程度のところだろうと
思います。このたとえは、次に続く、二人の主人に所有されたい奴隷という
かなり乱暴なたとえにつながっていきます。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛す
るか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」奴隷を所有す
る主人のたとえというのは、私たちにはあまり実感できません。せいぜい二
人の主人に気に入られようとする召使い、くらいのところで普通は想像して
います。しかし当時の人たちは、特にイエスさまから直接このたとえを聞い
た人たちは苦笑いしたと思います。このたとえは、あり得ないことなのです。
そんな奴隷なんてあるはずがない。二人の主人をもつ奴隷など存在しない。
しかし、あり得ない空想だけれども、仮にあり得たとしましょう。それが地
上に富を積む人の姿、別のものに注意しながら、同時に神にも目を注いでい
る人の悲劇です。本当に「二人の主人に所有される奴隷」がいるとすれば、
結局は自分の富に執着して、神さまに心は捧げられない。地上の富を必死で
守って、その守護者になるのが関の山で、神さまに対しては「主よ、主よ」
と口で言うだけで奴隷の方から主人を袖にし、ないがしろにしてしまいます。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」この事によく注意し
なければなりません。神さまと富には、兼ね仕えることはできないのです。
では、どうすればよいか。神さまのみを見つめることです。神さまのみ
を見つめ、そのみ心のみを求めて生きるのです。澄んだ目を持つ事です。
それは、人間だけの努力では得ることが出来ないものです。しかし、イエ
スさまとの出会いがそれを可能にします。イエスさまとの出会いがなけれ
ば、私たちの全身は暗いままです。でも、イエスさまはいつも私たちのそ
ばにいてくださり、私たちの心の扉を叩いておられるのです。私たちはそ
のドアを開けるだけでいいのです。そうすれば私たちにも澄んだ目を持つ
ことができるのです。そう、誰にでもできるのです。
中高生の聖書朗読を中心として、聖歌隊の賛美、岡崎第九フロイデ男声合唱団の賛美、ベルクワイアのミュージックベル演奏がありました。
祝福と感謝に満ちたクリスマス礼拝の後、子どもの教会による“クリスマス聖誕劇(ページェント)”がありました。中高生の力強い歌声と演技、幼少の子どもたちの愛らしい演技、応援の大人たちの熱演で、壮大で素晴らしいページェントが繰り広げられました。



Recent Comments