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収穫感謝日合同礼拝

11月25日は収穫感謝日合同礼拝でした。Shukaku1 
神様からいただいた豊かな実りを、神様に感謝してお献げ
しました。

いつもは違う時間に礼拝を守っている子どもたちと大人が、
この日は一緒に礼拝をしました。礼拝の式次第は子どもの
教会のものを使い、讃美歌もこどもさんびかをうたいました。
「はたけにおやさい」と「かみさまのあいは」をみんなで声を
あわせてうたいました。

Shukaku2

牧師からは、収穫感謝日の起源について、 メイフラワー号でアメリカにわ
たったピューリタンの話や、今なお飢え
にくるしむ子どもたちがたくさんいること
な ど、いつも元気な子どもたちも静か
に聞くことができました。

講壇の前には、教会員ひとりひとりが持ち寄った秋の実りが飾られました。
次週はこの献げ物をブランチとして分かち合います。

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『祈るときには』  マタイ6:5~15

私たちの信仰生活にとって、「祈り」はとても大事なものです。
「祈り」は信仰者の呼吸の様なものです。それは神とのごく自然な交流な
のです。「祈り」を欠くところにはキリスト者としての歩みはあり得ませ
ん。

イエス様の時代、「祈り」はユダヤ教会でも同じように大切にされてき
ました。個人の祈り以外に、神殿や会堂での祈りがありました。当時のユ
ダヤ教会では、午後3時になると、あらゆる仕事を中断し神に祈る習慣が
あったようです。主にファリサイ派の人たちが会堂や大通りの角に立って
祈る姿が、他の人々に、この午後の祈りを思い出させました。しかしこの
人前で蕩々と祈る、彼らの祈り自体はどうであったのでしょうか。それは
父なる神様への心のこもった祈りとはいえませんでした。ファリサイ派の
人たちは、人に見てもらおうとして、あえて会堂や大通りの角に立って祈
りたがったようです。「立派な祈りだ」「偉い人の祈りは違う」そう言っ
てもらいたい下心のある祈りは、舞台の演技のような祈りだというので
す。彼らが受けている報いは、人間からのものでした。それは神様ではな
く、人からの賞賛で終わるものでした。

イエス様は「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入っ
て戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」とおっ
しゃいます。ここで用いられている部屋という言葉は、農家の「貯蔵部
屋」というか、穀物などをしまう場所でした。この地方では、そこだけか
んぬきをかけて戸締まりの出来る場所だったそうです。「密室の祈り」と
いう表現もありますが、密閉が絶対条件ではありません。聖書は、人の目
を意識せず、人に聞かれる事もない、神様に一人で向き合う空間が大事だ
と言っているのです。だから「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠
れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と言われています。

どんな家でも、一人静まって神に祈る事は可能でしょう。自分の部屋が
なくても寝床で布団を頭からすっぽりかぶれば、そこで祈るための空間が
できるのです。問題は時間と空間です。空間がどうにかなるのですから、
時間を作り出すことはもっと安易な事ではないでしょうか。誰でも一日に
5分くらいは祈りのために時間をもうけることができると思います。祈り
の中で、隠れたところにおられる神様を発見する事ができるでしょう。マ
タイによる福音書は、他人の目を意識せずに、父なる神様との交わりに集
中する祈りを勧めているのです。
聖書の神様は私たちが知る以前に、また
知る以上に、私たちの事を知ってくださるのです。だから、くどくど祈る
必要もありません。コヘレトの言葉にも「焦って口を開き、心せいて 神
の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言
葉数を少なくせよ。」(5:1)とあります。また、私たちはプロテスタント
なので用いてはおりませんが、旧約聖書続編にあるシラ書(集会の書)で
は7章4節に「長老たちの集い場では無駄口をきくな。祈るときにはくど
くど繰り返すな。」とも書かれています。言葉数ではないのです。主は祈
る人の心をご覧になっています。そして、イエス様は弟子たちに『主の祈
り』を教えてくださいました。
イエス様が教えてくださった祈りは、まず「天におられるわたしたちの
父よ、」という呼びかけで始まります。でもこの言葉は少し矛盾を含んで
いるのです。「私たちの父」の「私たちの」は、私たちに近しい、親しい
という父なる神を表しておりますが、「天におられる」は私たちの思い通
りにはできない、主なる造り主なる神様を示しています。神様は私たちに
近く、そばにいてくださる方であると同時に、また私たちの手に届かない
ところにおられる
全知全能の方であることが分かります。
続いてイエス様はこう祈るように勧めています。「御名が崇められます
ように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるよう
に地の上にも。」「御国」は「神の支配」と訳した方がいいかもしれませ
ん。この現実世界において、神のみ心は踏みにじられ、神の支配は隠れた
形でしかありません。あまりにも多くの人が神を、真の神を知らない。し
かし、あきらめてはなりません。神の支配が成り、そのみ心が地でも行わ
れるように祈るのが、召された私たちの祈りです。11節は、霊的な食べ物
のみについてではありません。日々の食事の事を言っています。神様は人
間に必要なものをご存じです。私たちは必要なものをすべて神様からいた
だいているのです。多くの人の手を経て私たちの食卓に並ぶものは、神様
から受けたものなのです。だから私たちは主に、日ごとの糧を求めます。
12節には注意が必要です。誤解すれば、「負い目=罪」が赦される前提
条件として、人を赦す様にと、読む事もできるからです。間違ってはなり
ません。私たちが神様から罪を赦されるのに必要なものは、神様から与え
られる恵み以外にありません。だからむしろ、他の人を赦すことによっ
て、自分が赦されている事をさらに知るのです。
『主の祈り』を細かく見
ていくのは、一度の説教では難しいのでまたの機会にしましょう。大事な
のは、イエス様ご自身が、祈りを教えてくださったということです。ま
だ、神様に祈った事のない方はもちろん、様々な試練の中で、祈れなく
なっている方々にとっても、祈りは主が教えてくださるということ。この
事を信じましょう。言葉にならない切なるうめきでもって祈る事もできる
のです。ただ、最初に注意されているように、祈りは神様に向けて祈るも
の。偽善者のように人に聞かれるために祈るのではありません。個人の祈
りはどんなものでもかまいません。しかし、公の人の前で祈る時、人に聞
かせるための祈りではなく、みんながアーメン(=そのとおりです)と言
える祈りを捧げましょう。

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