献堂式を迎える直前の様子

会堂を彩る花Img_2567_2

ロビーImg_2571_2

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受付の書
(書家:勝川正枝姉 作)Img_2572_2

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献堂式

2016年5月3日 岡崎教会創立137周年 Photo
新会堂建築が無事完了し、献堂式の日を迎えました。


13:30 献堂を祝すため全国から集まって下さった約150名の兄弟姉妹がたとともに、献堂礼拝を主にお献げしました。

「主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい」
詩編のこのみことばのもと心を合わせて、主に会堂を献堂したいと願い、ひとつひとつの試練を乗り越え、この日を迎えることができ、教会員のみならず、献金や助言などこの業を支えてくださった兄弟姉妹がたと喜びを分かち合うことができたことは、心からの喜びでした。

礼拝のあとには、祝会が開かれ、御来賓からのお祝いの言葉、牧師バンドの讃美等楽しくあたたかい時を過ごすことができ、この交わりこそが主の恵みであると思わされました。

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献堂がゴールではなく、この神の宮から福音伝道のリスタートです。多くの方が岡崎教会を訪れてくださることを願っています。

この後も、講師をお招きしての研修会、関西学院大学のコーラス部による讃美、外部ハンドベルグループの讃美、ファミリーコンサートなどたくさんの献堂記念行事を企画しています。ここでお知らせしていきますので、たまに覗いてくださいね。

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子どもの日・パンの日の礼拝

子どもの教会の礼拝のなかで、イエス様が5000人にパンと魚を分けたことをおぼえて、牧師がパンを裂き、子どもたちが集まった人々に分け、一緒に食べました。

新会堂になりバリアフリーで靴のまま礼拝堂に入るため、以前の会堂のように床に車座になって座ることはしませんでしたが、皆で魚の形をしたパンを囲んで祝福をうけ、楽しく恵みに満ちたひとときになりました。

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新会堂でクリスマス礼拝の日を迎えました。

 新会堂が完成し、2015年12月6日に竣工記念礼拝を新しい会堂で行われました。

 そして、今日20日(日)はクリスマス礼拝。子どもと大人と一緒にお献げしました。新会堂は音響がよく、特に会衆の讃美歌がとても綺麗な響きで聞こえます。

 24日(木)19:00~には燭火讃美礼拝があります。皆様、ぜひお出かけ下さい。

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新会堂建築 十字架が掲げられました。

 新会堂建築は、みなさんの祈りのうちに内装工事へと進んでいます。

 教会の屋根には十字架が掲げられました。

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新会堂上棟式

 2015年6月18日午後6時より、新会堂の建築現場に於いて、工事関係の方々7名を含む22名の方の出席を得て、新会堂の棟上げ感謝の祈りが捧げられました。

式は、全ての柱が建てられ屋根は野地板が張られ、新礼拝堂の特徴である天井のアーチ形の方杖が見える新礼拝堂予定の場所で行われました。

 

柳本牧師の司式で、新会堂奉献聖句「主ご自身がたててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい」が朗読され、一同で讃美歌100番をもって主を賛美しました。

牧師の祈祷では、本日、無事に上棟式が出来る事を主に感謝し、奉献される新会堂が御心に合って用いられます様にと、また今後とも工事関係者の無事と安全が守られます様にと祈られました。

エフェソの信徒への手紙2章19節から22節までを引用して、わたくし達はキリストにおいてこの建物と共に霊の働きにより神の住まいとなるとの確信をしました。

一同、主の祈り、そして、the little churchの讃美歌で賛美をしました。終わりに、柳本牧師の祝祷をもって上棟式を無事終了しました。式終了後、柳本牧師より丸ヨ建設工業と工事関係者に対する感謝と工事の安全を祈ってお礼の言葉とされました。

望みのかなう時を夢みてきた新会堂が目に見える形で姿を現され、一同、期待と喜びと感謝に満たされたひと時でした。

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新会堂建築起工式

 前日からの悪天候を振り払うような青空の下、5月14日の空は晴れ渡り、主によって歩み出す起工式を迎えることのできた喜びは、そこに集まる皆が感謝な思いに浸り、牧師の祈りに合わせ、心ひとつに祈り合えた感謝の時となりました。

 建築業者からも主だった方、建築にあたられる方の出席があり、設計士も共に喜びに加わってくださいました。

望みのかなう時を夢見てImg_7529

あせらず進み すべてをつくそう

小さなことにも心をこめて

祈りと讃美絶やさずに

日ごとに石を積み上げ築こう

神が我らを育てるように

新会堂建設のために与えられたこの歌を歌いつつ、目に見える教会の姿を待ちながら、そこに主が建ててくださる教会に集うにふさわしい教会の群れとなれますようにと祈りつつ、喜びの起工式の無事に終わったことを報告させていただきます。

 会堂建設について、少しの不安を抱きつつ歩み始めた私たちに、主は共にいてくださることを確信させてくださったこの出来事にともに参加させていただける恵みを感謝いたします。




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「礼拝の開始」  エズラ記3章1~7節

エズラ記の3章には神殿を再建するためにエルサレムに帰ってきた人々が、礼拝を開始したことが記されています。バビロンから帰ってきた人々は、それぞれ自分の土地に帰り、生活を再建しなければなりませんでした。大変な苦労をしたと思います。その人々は、「第七の月に」エルサレムに集まってきました。 その人々の様子が「民はエルサレムに集まって一人の人のようになった」と記されています。 大変心惹かれる言葉です。しかし、ここで大切なことは、何をするために「一人の人のようになった」か、ということです。たとえば、野球の試合の応援をするということで、 多くの人々が「一人の人のように」なることはあります。そのことによって大きな喜びに満たされるということがあります。 しかし、それはその場限りの一時的なものにすぎません。

それでは、イスラエルの人々は、何をするために集まってきて「一人の人のようになった」のでしょうか。 2節から6節を注意深く読むと、「焼き尽くす献げ物」という言葉が6回も記されていることに気付くでしょう。このことから分かるように、イスラエルの人々は、「焼き尽くす献げ物」をささげるために「一人の人のように」なったのです。では、焼き尽くす献げ物を献げるとはどういうことでしょうか。当時の神への礼拝は、今日私たちが行っているものと大きく違っていました。私たちの礼拝の中心は、神の言葉です。神の言葉を歌い、神の言葉を唱え、神の言葉を聞きます。それに対して、このころのイスラエルの礼拝は、生け贄の動物をささげることが礼拝の中心でした。そして 「焼き尽くす献げ物」とは、神さまの愛に感謝して神さまに従って生きることを決意することを意味していました。「焼き尽くす」ということから、神さまに従わない部分を残してはいけないと考えることもできます。この部分は神さまに従うけれど、 こちらは自分の好きにさせて頂きます、というのではだめなのです。すべてを神さまに委ねるとき、神さまはすべてのことにおいて祝福してくださるのです。 そこにこそ神さまのもとから来る喜びに満たされるということが起こるのです。

エルサレムに帰ってきた人たちは、神殿を再建するために、まず礼拝を開始しました。神殿とは礼拝をする場所ですが、神殿が先にあるのではありません。6節には神殿の基礎はまだ据えられていなかった、と記されています。神殿に先立ってまず礼拝があるのです。礼拝が第一なのです。私たちは礼拝を後回しにしていないでしょうか。時間にゆとりができたら、気分にゆとりができたら礼拝しようと考えてしまっていないでしょうか。大きな困難に出会ってやっと神を礼拝する、というようなことがあるかもしれません。神をまったく礼拝しないよりはましと言えるかもしれませんが、神への礼拝を第一とすることが大切です。まず礼拝するための時間を捧げましょう。礼拝を通して神に出会い、人間にのみ寄りすがる生き方から解き放たれ、神のみ心を知り、いろんなことに取り組んでいけるのです。礼拝を第一とする信仰生活を守りたいと思います。

 

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「聖霊の賜物」    使徒徒言行録2章1~11節

聖霊降臨日はペンテコステと呼ばれます。よく子どもたちが(うちの教会ではありませんが)「ヘンテコステ」と冗談で言ったりしますが、ペンテコステとは50番目という意味の言葉です。

ユダヤ教に過越の祭から50日目に「7週の祭」と呼ぶ、小麦の収穫を祝う祭がありました。昔からこの日を律法授与の日として大切にしているようです。その「7週の祭」をギリシャ語に翻訳したのが「ペンテコステ」、つまり7週を経過して50日目、という言葉なのです。新共同訳聖書では、「五旬祭」と訳されています。

イエスさまが十字架に架かられた時は過ぎ越の祭りの最中でしたから、それから50日目の出来事であったことを表しています。この日に、この聖書の箇所に記されている出来事が起こりました。使徒言行録214節を読むと、弟子たちに聖霊が降り、「一同は聖霊に満たされ」たと記されています。ゆえに教会では「聖霊降臨日」と呼びます。そしてこの日を私たちは「(キリスト)教会の誕生の時」としているのです。

先週の週報でも「次週は教会の誕生日です」とご案内しましたが、先日行われた中部教区総会の閉会礼拝で「本当にペンテコステはキリスト教会の誕生日なのか」との問いを受けました。この日、全くの無から教会(交わりとしての教会)が生まれたわけではありません。確かに、このペンテコステと呼ばれる出来事以前から、イエスさまを中心とした弟子たちの交わりは存在していました。またイエスさまも「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書1820節)と話されていましたので、ペンテコステ以前に教会の誕生を見ることも可能なのか、とも思うのです。

では、教会とはいったい何なのでしょうか。イエスさまを救い主と信じる人たちの集まり。イエスさまの教えをきくために集まってきた人たち。いろいろ言えると思います。しかし、今日の聖書の箇所、ペンテコステの出来事を記す記事は、大事なことを示しています。「一同は…話し出した」ということです。そして、この場所に居合わせた人々は「彼らが…神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚いたのです。つまり、神の業を、その福音を、証ししたということです。それが聖霊の業として今日の聖書にはっきりと記されているのです。

聖書には、「この日教会が誕生した」とは書かれていませんが、世のキリスト教会は、イエスさまを救い主として信じ、その教えをきくために礼拝するだけでなく、その教え、つまり福音を証しすることをもって自分たちを教会としてきたのです。そういう意味で、礼拝と証しは教会にとって欠かせないものなのです。

先週の礼拝で、イエスさまが召天される直前に私たちに与えてくださった「大宣教命令」について学びました。これに応える存在として教会が生まれたのです。それも、自らの力によってではなく、聖霊の力によって。聖霊の賜物として教会が生まれたのです。まずそのことを確認しておきたいと思います。

そしてこの日、聖霊に満たされた使徒たちは、それぞれ外国の言葉で神の力ある業について語り出しました。イエスさまの復活、昇天、そして聖霊の力を通して、弟子たちは神の証人として新たな歩みを始めるのです。

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「それによる繁栄」   エズラ記9章10~12節

エズラ記9章には異民族との婚姻が問題とされています。ここでの問題は単に混血の問題でないことは明らかでしょう。なぜなら、かつてモアブ人ルツがイスラエル人のボアズに嫁ぎましたが、ボアズと彼女との婚姻関係を咎めるような箇所は一切ありませんでした。

ではここでの問題は何か。それは、神が悲しまれる偶像礼拝や不品行が、最も親密で深い結びつきである結婚ということにおいてイスラエルの中に持ち込まれたということです。また当時イスラエルでは、アブラハムへの祝福の約束を保つには、イスラエル人同士の結婚でなければならないと考えられていました。ダビデの子であり、アブラハムの子孫である方がメシヤであり、イスラエルがこの血における純潔を守る必要があると思われていたのです。そのような中で、彼らはカナン人やヘト人などの、モーセの律法において宗教的な純潔さを守るために結婚が禁じられている者たちと、結婚をしていました。

問題は、異教の民との結婚そのものよりも、それによってまことの信仰が失われる事態が生じたところにあるのです。95節からエズラの祈りが記録されています。過去の罪の告白、神のあわれみと神の命令の確認がなされています。それは信仰の純潔さを求める祈りです。

教会においては、未信者との結婚は、「つりあわぬくびき」として反対されることが多いかもしれません(1コリント7:39)。確かに、最初は多少の違いと考えられる宗教の違いも、実際に結婚生活を始めてみれば、余暇の過ごし方、将来設計、子育て、様々な点でその価値観の違いと乗り越えなければならない課題は多々あります。しかし、聖書には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録1631節)とあります。間違えてはいけません。大事なのは他の宗教を信じる者との結婚の禁止なのではなく、信仰の純粋さを保つということなのです。

この時に異民族と婚姻を結んだものは、結婚そのものが目的ではなかったようです。12節を読むと分かります。その婚姻が家になんらかの利益をもたらしたようです。神に頼らず、その地を牛耳っている異民族と婚姻を結ぶことによって、家とその身の安泰を計ったり、それが生み出す利益に目を奪われたり、彼らは「それによる繁栄」を求めたのです。そういった問題を今日の箇所は含んでいます。そしてその結果、信仰は純粋さを失い、力を失うのです。

エズラ記のみならず、旧約は、本来そのことを問題としています。異民族との結婚については、イスラエルの民が混血を嫌ったように時代の制約を受けていますが、なぜ彼らは、そして律法は、その結婚を禁じたのかをよく知り、現代において信仰の純粋さを守るという課題に取り組みたいと思います。ただ、それは自らを絶対化し、排他的になるということではなく、絶えず「イエスの教えに帰る」ということだと思います。キリスト教会が別の宗教を信じる者から学ぶということもあり得るのです。ただ、それによって「イエスの教え」から逸脱してしまうことはないのです。この世には様々な概念、価値観、宗教があります。その中で「イエスの教え」、信仰の純粋さを保つことに、もっと注意を注がなくてはなりません。神の愛と恵みの中にのみ生きること、そして信仰の歩みを成熟させることに、心を砕きたいと思います

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