毎年恒例の……

グリーンバザー sun

6月1日(日)11:10~  場所:日本キリスト教団岡崎教会

1階会場(11:10~) ケーキやクッキーなどのお菓子や食品。
              屋外には子どものコーナーもあります。happy01

2階会場(11:30~) 不用品バザー(日用雑貨・食器・衣料品)

どなたでも、お気軽にお越し下さい。お値打ち品をた~くさん準備して
お待ちしています。

なお当日の主日礼拝はいつもより30分早く、10:00から始まります。

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子どもの教会礼拝(パンの日)

 3月30日(日)子どもの教会では、イエスさまが荒野で群衆とパンを裂いて分かち合った出来事をおぼえて、パンの日の礼拝を守りました。

 子どもの礼拝で、2匹の魚と5つのパンの奇跡のおはなしを聴きました。

Fishbread

  そして、その後の合同分級では、礼拝堂の前の方に座布団をしき、大人も子どもも車座になって座りました。

 その中心にすえられたのが魚の形をした大きなパン。みんなで祈りをあわせた後、牧師がパンを裂いて、パンをみんなで分かち合いました。

Bread

 

 この魚の形のパンは、新城市作手清岳にある
高原のパン屋『麦の家』さんにお願いして作って
いただきました。
 とってもおいしかったですよ。bread

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『この人は神の子だった』  マタイによる福音書27章45~56節

 イエスさまの宣べ伝える内容は、当時のファリサイ派の人たちや祭司たち
の生き方を根底から覆すものでした。その結果、イエスさまは捕らえられま
した。その後、ユダヤの裁判で、神を冒涜し民衆を惑わしたという罪で有罪
とされ、ローマの総督ポンテオ・ピラトの前に引かれていきました。ピラト
はイエスさまには罪はないと判断しましたが、ユダヤの群集に圧されて、死
刑、すなわち十字架刑に処するために引き渡してしまいました。エルサレム
に入城された時、町はイエスさまを迎えた群集の歓喜の叫びでわきましたが、
ほんの数日後には、同じ群集の「十字架につけよ!」という叫びに埋めつく
されてしまいました。

イエスさまは、二人の罪人と共に十字架につけられました。荒削りの十字
架に手と足を釘で打たれ、その十字架をたてると、全体重が打たれた傷にか
かるのです。そして死ぬまでそこで見せしめのために放っておかれるという
むごい刑でした。当時のローマの中でも極刑とされていました。十字架にか
けられてからも、イエスさまは祭司長たちや律法学者たちや長老からも、さ
らに一緒に十字架につけられている強盗からまでも、侮辱を受けられました。
しかし、イエスさまはそれらの侮辱を黙って受けられました。彼は十字架を
降りませんでした。降りることもできたと思いますが、イエスさまは、全て
の罪をその身に負い、私たちに代わって、神の裁きである死を迎えようとさ
れていたのです。

マルコによる福音書によると、イエスさまが十字架につけられたのは午前
9時頃。やがて昼の12時になり、全地は暗くなりました。それが3時間続
いたといいます。十字架の上の苦しみが続いて約3時間後、イエスさまは大
声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、
わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。この叫
びは、イエスさまがあの十字架の苦しみと悲しみを洩らされた絶叫のように
思えるのです。もちろん神の子キリストが「神に見捨てられる」とは矛盾し
ているように思えます。イエスさまは一瞬たりとも、父なる神から離れるこ
とのない神の子でした。しかし、そのイエスさまが私たち人間の罪を引き受
けて神の前に立たれた時、ありえない事が起こったのです。罪のないはずの、
清い神の子が十字架にかけられ、神さまから切り離されるという、切断と暗
黒の恐怖を味われたのです。それは、本来なら私たちが受けるはずの罪の呪
いでした。本当は、私たちがそこで絶望と恐怖の悲鳴を上げるはずでした。
ですから「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は私たち人間の味わわなければ
ならない恐怖を一人で受けてくださった方の叫びなのです。本当なら、私た
ち人間が叫ばなければならない叫びを、イエスさまは、私たちに代わって叫
ばれたのです。

 イエスさまは大声で叫ばれた後、息をひきとられました。今日の聖書の箇
所には、「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たとあ
ります。この神殿の垂れ幕とは、一年に一度、大祭司しか入ることのできな
い、神の箱が安置されている至聖所とその他の聖所を隔てる垂れ幕の事で、
これがイエスさまの死と時を同じくしてまっぷたつに裂けました。それはキ
リスト者にとって、この垂れ幕が裂けたことで、神と私たち人間の間を隔て
ていたものがなくなった事をさしています。私たちは、その事により、直接
に何の制限もなしに神に近づき、イエスさまの十字架の死を通して完成され
た罪の赦しに与れるようになったのです。

さて、この十字架の出来事を見ていた百人隊長は「本当に、この人は神の
子だった」と告白しています。この言葉は、エルサレムでのイエスさまの姿
を見てきた、そして十字架での最後を見届けた、この異邦人である百人隊長
の口をついて出た言葉だと思います。イエスさまの生き方と死に方を見届け
た百人隊長の、実感した思いだったのではないでしょうか。異邦人である百
人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言いましたが、十字架上のイ
エスさまの姿は、イスラエル人にとって、とても神の子とは思えない哀れな
姿です。

しかし今、私たちはまさにその姿の中に、私たち人間への神さまの愛を見
るのです。神は罪を裁かれる方です。罪のない人間は一人もいません。イエ
スさまなしでは人間は誰一人、神の国へは行けないでしょう。イエスさまは、
裁かれるべき私たちの罪を背負って十字架にかかられたのです。その姿が真
の「神の子」なのです。神さまは、イエスさまを私たち人間の全ての罪の贖
いとして、召されました。私たちを赦し生かすために、イエスさまをあえて
見捨てられ、罪人が味わうべき苦しみをみ子に負わせられました。それは、
神さまの愛を示しています。自分の力では、罪をなくし神の子たる生き方が
できない私たちを救うために、イエスさまの十字架が必要だったのです。私
たちは今、こうして贖われた生命を生きています。これらは全て、イエスさ
まの十字架のおかげなのです。

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子どもの教会イースター

3月23日(日) きょうはイースター。chick

子どもの教会では、礼拝をまもったあと合同分級でゲームをしました。
教会のあちこちに散らばって礼拝準備中の大人たちのうち、指定の人を
探して、その人があずかっている封筒を集めるというゲームです。

「イースターおめでとう」とあいさつを交わしてから、封筒を受け取ります。
封筒の中からは、イエスさまのご受難と復活のものがたりを表した絵画が
出てきました。

Easter1 その絵画を礼拝堂の壁にならべて、イエ
スさまの受難から復活までのおはなしを
リーダーからお聴きしました。

 絵画は中高科の子どもたちが色づけを
して、枠をつけたものです。段ボールを利
用した枠ですが、とってもステキにできあ
がっています。

Easter2 合同分級のあとには、ひとりにひとつイースターエッグが手渡され、ゲームを楽しみながらもイースターの出来事を学ぶことができ、イエスさまのご復活の喜びを分かち合うことができました。

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『最初の弟子たち』   出エジプト記18:13~27 使徒言行録16:1~5

 最初の弟子たちは、このイエスさまに従い、初代教会をつくりました。別に人より抜き
ん出て才能があったわけではありません。平凡な、いやむしろ貧しく小さな弱い人たち
でした。その歩む道の行く手には、絶えず困難が伴いました。時は教会にとって迫害の
激しい時代です。理解されない苦しみと、その信仰ゆえに命を狙われる危険が、絶えず
彼らを脅かしていました。しかし、彼らは大きな働きをなしたのです。見事に神の業に
用いられたと言えるでしょう。

旧約の時代のモーセも同じように神に召されました。彼自身はイエスさま
の最初の弟子たちと同じように、小さな弱い不器用な人間でした。そんな
モーセがイスラエルの民を率いて、出エジプトを行ったのです。無謀な企て
とも言えるでしょう。
エジプトからパレスチナまで、なんと40年もかかったといいます。それだ
け旅は困難を極めたのでしょう。聖書はその間、モーセがまとまらない民に
戸惑いながら荒れ野を旅する様子を記しています。旅の困難は物理的なもの
だけではなく、その群れの状態が原因であったようです。

 モーセの仕事は多忙を極めていました。群れを裁く責任が、彼一人に集中
したのです。多くの民を率いて旅をするのですから、実際に微にいり細にわ
たって彼が判断したとは思えませんが、民の裁きの責任が、彼に重くのしか
かっていました。人々はモーセの裁きを仰ぐため、列をなして押し寄せてい
ました。もとより器用な人間ではありません。神の召命を受けた時、頑固に
拒み続けた経歴をも持っています。彼自身、指導者として民の前に立つのな
らば、自分の話し下手なところが致命的だ、と思ったからでしょう。にもか
かわらず神さまはアロンという助け手を与えて彼を民の前に立たせました。
かくしてイスラエルは寄留の地であるエジプトを出発しました。エジプト王
であるファラオの追っ手をふりきっての逃亡でした。

 途中、モーセは旅の困難につぶやく民に手を焼きながらも、神さまの助け
を得ながら道を行きました。しかし、誰もその責任を分かち合おうとする者
がいなかったことが、彼を悩まし続けました。ある日、彼の舅であるエテロ
が訪ねてきます。エテロはモーセのやり方を見て、「どうしたことか」と思
います。そしてモーセに助言するのです。

 モーセよりも人生経験が豊かであったエテロは、責任と役割を分担する事
を提案します。「千人隊長」「百人隊長」「五十人隊長」「十人隊長」を立
て、普段の民の裁きを担わせるようにとアドバイスするのです。モーセ独り
に民を率いる責任を負わせないで、仕事を分担させる事によって、彼の負担
を軽くする方法です。神さまの命令がモーセの上にあるならば、そのような
やり方で、神さまは彼を任に堪えるようにしてくださると言うのです。
モーセはエテロの言う事を聞き入れました。その結果、すべてがうまく行っ

たとは言えません。それ以後も、やはり様々な問題が群れに起こりました。
しかし、モーセ自身も民も、疲れ果てることを免れ、約束の地を目指す事が
出来たのです。

 神さまはモーセにエテロを遣わし、指導者の力にまかせて民を率いるので
はなく、人々が共に労し、役割を担い合う中に、神さまの導きを見出す群れ
を起こされたのです。強烈なリーダーシップでは確かに人を魅了するかもし
れません。しかし、キリスト者の群れは、指導者一人の人柄や才能に率いら
れるものではありません。
人々が真の神を尋ね求め、神の業に召されて、その働きを担い合う群れなの
です。

 もう一つ大事な事が、聖書の箇所から学べます。それはモーセが舅の助言
を聞き入れたことです。助言はしばしば批判として受け取られます。エテロ
も「あなたのやり方は良くない」とはっきりモーセを批判しています。モー
セが傲慢な思いに捕らわれていたら、エテロの助言は空しく退けられていた
ことでしょう。年長者である舅の言葉を軽んじていたら、モーセはなお自分
のやり方に固執し、民は収拾つかない状態に陥っていたでしょう。彼が神さ
まの召命をなんとか逃れようと拒み続けたエピソードが出エジプト記3章以
下に記されていますが、彼の自信のなさが功をなした、という言い方も出来
るかもしれません。いずれにせよ、自己を絶対化する時、私たちは自分のや
り方を修正する余裕を失っていると言えるでしょう。

神さまは決して人間一人の力に負うのではなく、一人ひとりを器として用
いてくださりみ業をなされる、という事。お互いがその働きを担い合うこと
によって責任を分担し、人が、そして人々が、疲れ果ててしまうことがない
ように導いてくださっている。という事。祈りに適って助言を与え、まずい
やり方を改める機会を用意してくださる。という事をみ言葉から指し示され、
心に留めたいと思います。
そして最初の弟子たちに続いて、主の招く声に身を捧げたいと思います。

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『救い主の誕生』  ルカによる福音書2章8~20節

 救い主イエスさまの誕生は、最初に野宿していた羊飼いたちに告げ知らさ
れました。私たちは羊飼いというと、ダビデに繋がるイメージがあります。
しかし、イエスさまがお生まれなさった時代、彼らは貧しく身分の低い者と
されていました。

 それにしてもいったい何故、羊飼いは羊を連れて野宿していたのでしょう
か。こんな季節に羊を外で一晩過ごさせるとは、いったいどういう事なので
しょうか。寒いし、羊を襲う獣にも狙われます。当然、羊飼いもたいへんで
す。本来ならば、寒く恐ろしい夜は、心配のない囲いの中や、暖かな家畜小
屋で過ごすはずなのです。おそらく、羊飼いたちは、家畜小屋を追い出され
たものと思われます。彼らは家畜小屋で羊や他の動物たちと一緒に暮らして
いたのです。ですから、家畜小屋とは私たちがクリスマスのイメージで思う、
小さな馬小屋ではなく、もっと大規模なものでした。その中に羊飼いたちの
居住空間もあったのです。

皇帝アウグストゥスの勅令により、全領土の住民は登録するために生まれ
故郷の町に行かねばなりません。ベツレヘムにも散り散りになっていた人た
ちが大勢集まってきていました。ヨセフもダビデの家系なので、ガリラヤの
町ナザレから、その町ベツレヘムにやってきました。裕福な人たちは、知人
や親戚の家に泊めてもらえますが、貧しい者は宿屋に泊まらなければなりま
せん。宿屋はどこもごった返しで、部屋という部屋は満員です。宿屋の主人
は、この稼ぎ時に、家畜小屋を空けて、貧しい人たちを泊めたのだろうと考
えられます。だから、羊飼いたちは追い出され、その夜、羊たちを連れて野
宿しなければならなかったのです。

家畜小屋に宿をとった人たちは、マリアとヨセフだけだったのではありま
せん。他にもそこにしか宿をとれなかった貧しい人たちがいました。考えて
みれば、その家畜小屋でマリアが出産するという時、同じようにそこに泊まっ
ていた女性たちの手助けがあったのだろうと思います。ヨセフには申し訳な
いのですが、彼だけではどうすることもできなかったでしょう。

 野宿している羊飼いたちに戻りますが、彼らに主の天使が近づき、主の栄
光が周りを照らしました。恐らく彼らにとっては天使に会うなんて初めての
出来事だったのでしょう。驚きと畏れをもって、この光景に出くわしました。
その天使は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方
こそ主メシアである。」(2:10-11)「主メシア」とは主キリストという意味で
す。当時、ローマの圧政の中で、ユダヤの人たちは労役と税金に苦しんでい
ました。彼らは、聖書(旧約聖書)に預言されている、救い主が現れるのを待
ち望んでいました。貧しい羊飼いたちも、確かに救い主を待ち望んでたこと
には変わりはないでしょうが、どこかで自分たちには関係ないと思っていた
のだろうと思います。救い主は確かに来てくださるに違いないが、自分たち
のところにではない。と思っていたのです。それほどに彼らは貧しかったの
です。そんな彼らに、天使は「あなたがたのために救い主がお生まれになっ
た。」と言うのです。そしてしるしが与えられます。「あなたがたは、布にく
るまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあな
たがたへのしるしである。」飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子。これが羊飼
いたちに与えられたしるし。何故でしょう。私たちの考えでは、生まれたば
かりの赤ん坊を家畜の飼い葉桶の中に寝かせるなんて、とんでもないことで
す。しかし、それは羊飼いたちの日常でした。彼らは土間にわらを敷き寝て
いました。でも生まれたばかりの赤ん坊を、土の上には寝かせることなどで
きません。余っている飼い葉桶の中に寝かせます。彼らに赤ん坊が生まれた
時にはいつもそうしていたのです。

 だから、「これがあなたがたへのしるしである。」と言われた時に、羊飼い
たちは分かったのです。自分たちには関係ないと思っていた救い主の誕生。
しかし、そうではなかった。まさに救い主は、王宮にではなく、金持ちたち
の間でもなく、貧しい自分たちのところに来てくださったのだと。だから飼
い葉桶の中の救い主は、彼らにとってのしるしとなるのです。「すると、突
然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところ
には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使の讃美を聞
いた彼らは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来
事を見ようではないか」と話し合いました。町中がごった返す中、彼らはマ
リアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子をほどなく見つけまし
た。何処を探せばよいのか、彼らには分かっていたからです。それは追い出
された自分たちの暮らしていた家畜小屋。彼らにしか分からない場所でした。

天使の言うとおりであったこの出来事を、彼らは町の人々に告げ知らせま
す。最初のクリスマスを過ごした羊飼いたちは、最初の宣教者となったので
す。しかし、彼らの言う事を聞いた人々は皆、不思議に思いました。聖書に
は「皆」と書いてあるので、誰一人羊飼いたちの言う事を信じる者はいなかっ
たと言う事でしょう。来るべきメシア、キリスト、王としてイエスさまは来
てくださいましたが、もっとも王らしくない生まれ方をし、もっとも神らし
くない姿をとってこられたからです。そこには神にふさわしいものは何一つ
ありません。疑う者は疑う事が出来ます。心をかたくなにする者は、心をか
たくなにします。しかし、たとえ疑っても、心をかたくなにしても、この家
畜小屋で生まれたお方の中に、神さまの栄光は現されています。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
   (ヨハネ3:16)
神は、その独り子を賜うほど、あなたを愛してくださっているのです。飼い
葉桶の中の乳飲み子は、その事を示しているのです。

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『天に富を積む』  マタイ6:19~24

ルカによる福音書では、「富を天に積む」とは「自分の持ち物を売り払って
施す」事だと記されています。しかし、マタイはそれを採用していません。
マタイのいう「富」は、単に経済的な蓄財だけではなく、人の評価とか虚栄
心も入っています。イエスさまは「地上に富を積んではならない」とおっしゃ
いました。これは決して多く持つ事がいけないと言ってはいません。多くを
持って、それで神に仕える事もあり得るし、逆にまた、少ししかないために
貧欲になって、富の虜になる場合もあります。富む時にも、貧しい時にも、
富の誘惑は私たちに迫ってきます。富を所有したいという願望が、私たちの
心の瞳を濁らせてしまうのです。私たちは、自分の所有から自由になれるで
しょうか。自分が所有しているのだから。自分が計画をたてて主体的に貯め
ているのだから、自分が主人であると考えます。「所有する」ということに
自分が縛られるはずはない。と誰もが一度は考えます。しかしこれは逆にな
るのです。地上の富みに縛られる。目がくらまされて視界から神さまが消え
てしまう。自分の得た富みに仕える奴隷となってしまうのです。これは人間
に罪がある限り、避けることが出来ない誘惑でしょう。イエスさまに捕らえ
られて、初めて、自由への道が見え始めるのです。

地上に蓄えられた富は「虫が食ったり、さび付いたりする」。この虫は木
食い虫のようなものらしく、「長持ち」のような木製の箱を食い破ったそう
です。さびは、鉄の箱でも長年かけて浸食してきます。どんなに大事に保存
したものでも永久ということはありません。イエスさまは、地上の富が不安
定で不確かだという事を言っておられるのです。「富は、天に積みなさい。」
イエスさまはそうおっしゃいます。ここで注意が必要です。ある人は、善い
行いによって、天の銀行に口座を作って貯蓄することのように解釈しがちで
すが、それは正しい理解とは言えません。「積みなさい」と書いてあります
が、これは人間が自分の力や功績で積めるようなものではありません。そし
て「天の富」とは神さまが備えてくださるものです。神さまが備えてくださっ
たものに目が開けて、それをわが宝とすることを、「天に富を積む」と表現
したのでしょう。その宝が何かは今ここでは語られません。そして、「あな
たの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と言われています。これ
は「あなたの心が何処にあるのか、それがあなたの宝の所在を決める」と言
う事を裏返しの言葉で強烈に表現した言葉だといえるでしょう。「天に口座
を開いて善行を貯めておけば、心も安らかだ」というような意味ではありま
せん。神さまの業に、教会の業に、心があるならば、私たちは惜しみなく捧
げます。自分たちの富を確保した上で余った分を捧げるようなことはしませ
ん。私たちは自分が神さまから贖われた生命である事を知っています。与え
られたものはすべて神さまからいただいたものだという信仰に立っています。
だから、自らすすんで喜んで捧げる事ができるのです。

 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その
暗さはどれほどであろう。」ここでは、体は人格としてのその人を代表して
おり、目は、神さまをしっかりと見つめる能力。神さまの光を、人間として
の自分の中に受け入れる「光の取り入れ口」とでも言うのでしょうか。光の
取り入れ口が澄んでいれば、内側は射し込む光で満たされます。だから「目
が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」のです。そのような目は、イエス
さまを知ってから初めて持てる目なのですが、それがないと私たちは底無し
の暗黒にいなければなりません。しかし、この目は誰であろうと必ず持てる
ものです。けれど、自分の罪に目が開けて、そして、イエスさまの流された
血だけが私たちの罪を清めるという事実をはっきりと見極めるまでは、肉の
ままの人間には持てないものです。どうしてもこの世の煩いが目に入ってき
ます。せいぜい何かに重なって、時々神さまが見える程度のところだろうと
思います。このたとえは、次に続く、二人の主人に所有されたい奴隷という
かなり乱暴なたとえにつながっていきます。

 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛す
るか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」奴隷を所有す
る主人のたとえというのは、私たちにはあまり実感できません。せいぜい二
人の主人に気に入られようとする召使い、くらいのところで普通は想像して
います。しかし当時の人たちは、特にイエスさまから直接このたとえを聞い
た人たちは苦笑いしたと思います。このたとえは、あり得ないことなのです。
そんな奴隷なんてあるはずがない。二人の主人をもつ奴隷など存在しない。
しかし、あり得ない空想だけれども、仮にあり得たとしましょう。それが地
上に富を積む人の姿、別のものに注意しながら、同時に神にも目を注いでい
る人の悲劇です。本当に「二人の主人に所有される奴隷」がいるとすれば、
結局は自分の富に執着して、神さまに心は捧げられない。地上の富を必死で
守って、その守護者になるのが関の山で、神さまに対しては「主よ、主よ」
と口で言うだけで奴隷の方から主人を袖にし、ないがしろにしてしまいます。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」この事によく注意し
なければなりません。神さまと富には、兼ね仕えることはできないのです。

 では、どうすればよいか。神さまのみを見つめることです。神さまのみ
を見つめ、そのみ心のみを求めて生きるのです。澄んだ目を持つ事です。
それは、人間だけの努力では得ることが出来ないものです。しかし、イエ
スさまとの出会いがそれを可能にします。イエスさまとの出会いがなけれ
ば、私たちの全身は暗いままです。でも、イエスさまはいつも私たちのそ
ばにいてくださり、私たちの心の扉を叩いておられるのです。私たちはそ
のドアを開けるだけでいいのです。そうすれば私たちにも澄んだ目を持つ
ことができるのです。そう、誰にでもできるのです。

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聖夜燭火讃美礼拝

 例年になく暖かい聖夜、12月24日(月・祝)午後7時から聖夜燭火讃美礼拝(キャンドルサービス)が行われました。Mass

クランツに3本のキャンドルの灯りがつけられ、前奏「ノエル」が演奏されて会衆が静まって礼拝に備える中、招詞が司会の柳本秀良牧師によって読まれました。聖夜燭火讃美礼拝の始まりです。

「神の時は今満ちて」の独唱が会堂に豊かに響き、キャンドルを掲げた子どもたちが入場し、クランツの4本目のキャンドルに灯りが点されました。そして、その灯火は会堂に集まった一人ひとりのキャンドルに徐々に伝えられ、会堂全体がやさしいキャンドルの灯りで満たされます。

P1000813 中高生の聖書朗読を中心として、聖歌隊の賛美、岡崎第九フロイデ男声合唱団の賛美、ベルクワイアのミュージックベル演奏がありました。

そして、柳本牧師により「クリスマスメッセージ」が語られ、救い主の誕生を喜びと意味をやさしく会衆に伝えました。

 今年の礼拝には、岡崎第九フロイデ男声合唱団が初めて参加してくださり、力強く華麗な賛美を聴くことができました。感動。

 会堂に入りきれないほどの146名もの皆さんが礼拝に出席され、共にクリスマスを喜び、クリスマスメッセージを聴くことができたことを主に感謝いたします。

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賛美にあふれたクリスマス

12月23日(日)、岡崎教会ではクリスマス礼拝をお献げしました。 Baptesma

礼拝では柳本秀良牧師から『救い主の誕生』と題したメッセージをお聞きしました。
  そして、今年は3名の受洗者が与えられ、洗礼式が執り行われました。家族3名揃っての受洗で、立ち会った者すべてにとって、また岡崎教会にとって神様からの大きなクリスマスプレゼントでした。

Play_2 祝福と感謝に満ちたクリスマス礼拝の後、子どもの教会による“クリスマス聖誕劇(ページェント)”がありました。中高生の力強い歌声と演技、幼少の子どもたちの愛らしい演技、応援の大人たちの熱演で、壮大で素晴らしいページェントが繰り広げられました。

その後は、クリスマスの祝会です。愛餐会は持ち寄りバ イキングで、教会員がお菓子や惣菜、お寿司やパンなどを持ち寄って共に食卓を囲みます。写真のとおり、きれいに盛り付けられLunch1たご馳走がいっぱい。

自慢の手料理がずらりと並び、味も最高!感謝していただきました。

さて、愛餐の後はお楽しみの始まりです。 聖歌隊の讃美歌、マジック、フルート演奏、牧師ご一家のパフォーマンスと楽しい出し物が続きました。

Santa

そして「サンタクロースのおじいさん、いまどこですか?」の歌に誘われて、サンタクロースが登場。子どもたちにプレゼントが届けられました。たくさん持ってきたプレゼントの残りまで置いていかされたサンタさんは、手ぶらで帰っていきました。来年もまた来てね…。

そして、ベルクワイアによるベルの演奏、参集者全員で「もろびとこぞりて」を歌い、感謝の祈りを捧げ、祝会を終わりました。

司会者の絶妙な取り回しもあって、楽しく喜びに満ちた祝会でした。(^o^)

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収穫感謝日合同礼拝

11月25日は収穫感謝日合同礼拝でした。Shukaku1 
神様からいただいた豊かな実りを、神様に感謝してお献げ
しました。

いつもは違う時間に礼拝を守っている子どもたちと大人が、
この日は一緒に礼拝をしました。礼拝の式次第は子どもの
教会のものを使い、讃美歌もこどもさんびかをうたいました。
「はたけにおやさい」と「かみさまのあいは」をみんなで声を
あわせてうたいました。

Shukaku2

牧師からは、収穫感謝日の起源について、 メイフラワー号でアメリカにわ
たったピューリタンの話や、今なお飢え
にくるしむ子どもたちがたくさんいること
な ど、いつも元気な子どもたちも静か
に聞くことができました。

講壇の前には、教会員ひとりひとりが持ち寄った秋の実りが飾られました。
次週はこの献げ物をブランチとして分かち合います。

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«『祈るときには』  マタイ6:5~15