「祈り」  テモテへの手紙Ⅰ 2:1~8

2章1節にある第一の勧め「願いと祈りと執り成しと感謝」はすべて「祈り」でくくられると思います。そしてここでの強調は「すべての人々のために」です。王たちや高官という政治的指導者たちも含まれ、異教徒・迫害者でもある彼らへの祈りを信仰の課題としました。世間には、神を冒涜する者がいたり、また教会を迫害する者たちがいたり、そして偽りの教えをなす偽預言者や教師がいたりします。するとどうしても、教会は排他的になりやすくなります。そのような中で、教会の公同の集会における祈りに関して、パウロはすべての人々のために祈るように勧めているのです。

本来、民主的秩序の下で、権威を委ねられた人々は、全ての人の平和と幸福の為に政治を行うために、公務や職務を果たすべきです。そして神に背むくようなことを政府が命じない限り、キリスト者は、自国の政府に忠実でなければなりません。しかし逆に政府が神に背くようなことを命じるなら、キリスト者は、先ず神に対する責任を果たします。私たちは、政府が、全ての人の幸福と平和を追求することを望みますが、実際は、そううまくいっていないのが、世界の情勢、日本の情勢です。時にすべての人の平和や幸福より、党利党略、争いや戦争が絶えません。

ですから、立てられた指導者たちが、本来の務めを果たすことが出来るように執り成しの祈りをすることは、教会の大切な行為です。このテモテへの手紙が記された当時の権力者が、ローマ皇帝ネロであったなら、それはさらら重い意味をもっています。ネロは、皇帝の中でも、最もキリスト教徒を迫害した人物です。ローマに起こった大規模な火災の原因は、キリスト者にあるとして、彼らの中には、公然と虐待され、焼かれ、動物の餌食とされていました。しかし、そのように迫害している人たちの為に、祈れと勧められたのです。イエスが、「迫害する者の為に祈れ」と言われたことを実践せよと勧められたのです。それは憎しみから解放される道でもありました。真剣に、すべての人の為に祈っている限り、教会は誰をも憎むはずがなくなります。そして迫害している人たちが、愚かさや邪悪さから守られ、本来の統治の道を歩めるように執り成しの祈りを捧げるように招かれています。

私たちは、怒ることはあっても、立てられた高官の為に、とりなしの祈りを捧げているかと言われると、それは乏しいのではないかと思わされます。政府や政財界の為、司法界のため、各分野の指導者の為に祈ることも必要なのではないでしょうか。

教会は、世と神と和解させる務めを神から、委ねられています。「神は実にその独り子を遣わされるほどに世を愛された」この世とは、すべての人のことです。全ての人に神の憐れみが注がれるように祈りなさいと勧められています。

教会の秩序は、世の秩序と治安の中で、保たれている面があります。私たちが、常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためにも執り成しの祈りが必要なのです。 

「信心」とは、原文では、「神を恐れ敬う」とも訳せるものですが、神や超自然的なものへの敬虔さのことです。品位は、指導者が特に持つべき風格や威厳のことです。これが常に保たれるためにも、迫害している者たちの為にも、祈ることが大切です。

逆に、王や高官たけでなく、貧しい人たちの為にも祈る必要があります。祈りがすべての人の関心事を包み入れるように絶えず注意が求められてもいます。経済的に貧しい人たちだけではありません。霊的に貧しい人たち、偽教師や偽預言者たちの為にも。犯罪を犯す人や不道徳な人たちの為にも。親子の断絶や、夫婦の関係において問題がある人たちの為にも。肉体的な病に苦しむ人々の為にも。社会的に貧しい人たち、すなわち人種差別や、性差別されている人たちの為にも。また日本の教会が、かつて植民地支配したアジアに対して、謝罪と共に、現在の教会と合同して宣教と祈りを共にすることも、大切なことです。教会の祈りは、全ての人々の為に行われるべきです。

教会がもし、自分自身のことばかりを考えているなら、その礼拝が正しく行われているとは言えないのではないでしょうか。ですから、教会は、聖書の教えのように祈ることができてこそ、イエスのみ言葉に留まることができるのです。それはキリストがすべての人の「仲介者」だからです。この言葉の原語の意味は「調停する中立的な人」「証人」「保証人」を意味しますが、転じて、神と人との間での交渉者および仲介者、また執り成し人を表す言葉として用いられてきました。

イエスはすべての人を執り成されます。先ほど詩編交読で読みました、「御前に正しいと認められる者は 生命あるものの中にはいません」(1432節)というように、誰もが罪人であるにも関わらず、贖ってくださるのです。私たちはそのように執り成されたのですから、自らの信仰生活の課題として、執り成しを祈るのです。神殿奉献の際、ソロモン王は「この所に向かって僕がささげる祈りを…聞き届けて、罪を赦してください」(歴代誌下62021節)と祈り、それに続けて、さまざまな場合のさまざまな罪を挙げて、赦しを願いました。ソロモンはそれそれの状況に置かれた人の罪を想像し、その重荷を負う人を思いやり、我がこととして祈ったのだと思います。

執り成しとは、その罪深さを自らのこととして理解した者が、神にひれ伏しつつなすものであるがゆえに、私たちに託されたのです。相手を裁くことなく(マタイによる福音書71節)「天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(同711節)と言われた主の言葉を信じて、祈りたいと思います。

「男は怒らず争わず…祈ることです」(28節)とあるのは、当時、公的な場で祈るのは男性であったため、普段から怒らず争わず、どこででも祈れと言われたのですが、男女問わず向けられている教えです。怒りと争いの思いを捨てて、すべての人々のために祈るようにとの勧めは、私たちの課題ではないでしょうか。

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「神さまとのお話」 ルカによる福音書18:1~8

みなさんは「お祈り」をしていますか。どんな時にお祈りをしますか。朝起きた時、夜寝る前、ご飯を食べる時…いろいろありますね。一日に何回もお祈りする人もいるでしょう。毎日のお祈りを欠かさない人もたくさんいると思います。イエスさまは「気を落とさないで絶えず祈りなさい」ということを教えるために、弟子たちにこのたとえ話をされました。 

たとえに出てくる「やもめ」とは夫を亡くした人です。その人は裁判官に「裁判をしてください」「相手を裁いて私を守ってください」と何度も何度も頼んでいます。詳しいことは分かりませんが、その人はやもめという弱い立場にたたされて、ひどい目にあっているのでしょう。そしてこの裁判官は、人をばかにしていて、人の言うことなどまったく聞かない人だったようです。そんな人が裁判官だったら困りますね。でもやもめは負けてはいません。 

自分を守るために必死の努力をしています。それは、もう他にできることがないから、もう頼む人がいないから、人を人とも思わない裁判官だとしても、くり返しくり返し、しつこいほどに願っているのですね。 

このやもめのように、くり返しくり返し神さまに向かって祈りなさい。そうすれば、悪徳裁判官でさえ訴えを聞くのだから、まして、私たちのことを選び、愛してくださっている神さまが、「昼も夜も叫び求めている」(7節)私たちの祈りを聴いてくださらないはずがない、とイエスさまは教えてくださっています。 

イオンで、以前に、小さな子どもが「買って、買って」とせがむ声を聞いたことがあります。見ると、小さな男の子がお父さんにお菓子をせがんでいます。時々見かける光景ではありませんか。その叫び声は、私が買い物をしている間中、レジに並んだ時にも、まだ続いていました。

私は、今日の聖書のみ言葉を考えながらその時の光景を思い出して、普通はお父さん、困っただろうなあと苦笑いする場面ですが、自分の信仰に必要なのは、あの小さな子どものように、父なる神さまに向かって、本気で、ひっきりなしに、うるさいほど叫び続ける、祈り続けることではないだろうか、と感じました。

ひっきりなしに、うるさいほどに、真剣に祈る祈りを、神さまが「いつまでもほうっておかれることがろうか」(7節)その祈りは必ず聞かれるとイエスさまは言うのです。 

「神は速やかに裁いてくださる」(8節)とは、言い換えれば、祈りは聞かれる、ということですね。

ところで「お祈り」とは何でしょうか。それは神さまとお話しすることです。「神さま、こんなに美しい、素晴らしい世界や地球を与えてくださってありがとうございます」「今日学校で、なんとなく話ができないでいたお友だちと話しができました。神さまありがとうございます」「お友だちと喧嘩して、相手にひどいことを言いました。神さまごめんなさい。仲直りしたいと思います」「入院しているお母さんが早く良くなりますように」など。お祈りには「賛美(神さまをたたえます)」「感謝(ありがとう)」「お願い」「ごめんなさい(悔い改め)」「人のため(とりなし)」など、いろいろあります。

イエスさまは、度々一人で祈られました。静かなところや山に行って祈られました。弟子たちがイエスさまと同じように教え、行いを示していくことができるように、弟子たちのために祈られました。病気の人や弱い立場にたたされた人のために祈られました。

お祈りは「お願いすること」だけではありません。しかし、このたとえ話のやもめのように、本当に困っている時に心からお願いすることも大切なお祈りです。困り果ててどうすることもできない人が、神さまに「どうにかしてください」と叫ぶ願いを、神さまが聞いてくださらないはずはないのです。少し時間はかかることもあるでしょう。今の私たちは「すぐに」結果が出ることばかり求めてしまいますが、神さまの時間は人間の時間とは違います。でも、神さまの約束は、必ずそのとおりになるのです。

しかし、お祈りしても必ず自分の思い通りになるとは限りません。神さまは私たちには分からない最も良い道を示してくださいます。聖書を読んで神さまのみ言葉を聞き、お祈りをしていると、最初はずいぶん自分勝手な祈りではあっても、だんだんと神さまのみ心を求める祈りに変えられていくものです。先週はペンテコステといって全世界のキリスト教会のお誕生日でした。その時に弟子たちは上(天)からの力、神さまの霊=聖霊に満たされました。その聖霊が私たちを神さまのみ心へと導いてくださるのです。そのためにもお祈り、つまり神さまとのお話をすることはとても大切なのです。私たち一人ひとりも、希望を持ちながら、神さまとのお話を続けていきたいと思います。

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「イエスは復活また命」 ヨハネによる福音書11:17~28

54日に私たちの教会は創立138年を迎えました。教会の歩みを振り返ると、祝福と共に私たちは負の歴史を持っていることにも目を向けなければなりません。分裂を繰り返した歴史です。与えられた聖書箇所をそういう視点から読み直してみたいと思います。

ベタニア村のラザロという弟子が死にました。その人を復活させるために、イエス一行はベタニア村へと向かいます。ベタニア村に入る前にもう一幕あります。この福音書はラザロの姉であるマルタ、マリアとイエスとの対話にも紙面を割いているのです。この対話はどうしても必要です。イエス一行はラザロの死に、ある意味責任を負っているからです。「二日間の滞在」(116節)が原因でラザロが死んだとも言えるのです。なぜイエスはすぐに来なかったのか。信頼にひびが入っている状態なのです。マルタとマリアにはイエスに対する不信感があります。

そういうわけですから「復活」という言葉の意味合いを、拡大させて考える必要があると思います。この文脈で「復活」とは、死者の「蘇生」だけではなく、生きている者たちの関係性の回復も表現されているのではないでしょうか。そういう視点で、この箇所を読み解いていきたいと思います。特にマルタという弟子に焦点を合わせて考えたいと思います。

イエスがベタニア村の近くまで来ると、マルタは村の外でイエスを出迎えました。マルタとマリアが使いに出した人は、すでに帰って「イエスは弟子たちに引き留められてエルサレム近くのベタニアには来ないのだそうだ」と告げていたのではないでかと思います。

この報告はマルタとマリアの心を傷つけたでしょう。イエス到着が仮にラザロの死んだ後であっても、もしイエスが息せき切って大急ぎで来てくれてさえいれば、彼女たちの憤りは和らいだかもしれません。「イエスは無情にも二日間わたしたちを放置した」この思いがお互いの信頼にとっての危機なのです。

イエスが近くまで来ていることを知った姉妹は、それぞれ別々の行動でイエスに対する批判をします。マルタは村の外まで出て行って、真っ先にイエスに抗議をします。マリアは、家の中に座り続けることで、意思表示をします。気持ちは一緒だったでしょう。なぜ、「イエスは今頃のこのこと来たのか」彼女たちは怒っていたでしょう。マルタの場合は家の代表者として公式に抗議を村の外でしました。「主よ、あなたはどこにいたのですか。あなたがいれば、わたしの兄弟ラザロは死ななくて済んだでしょうに。人が望めば神はあなたに何でもお与えになることを、わたしは今も知っています。わたしたちが病気の治療を望んだときに、神はあなたに時間と能力を与えておられましたが、なぜそれを用いなかったのですか」という風にマルタは抗議したのだと思います。

マルタの批判に対してイエスは「あなたの兄弟は復活する(未来形)」(23節)とイエスは応えました。その言葉を聞くやいなやマルタは鋭く突っ込みます。「それは、世の終わりのことを指しているのでしょうけれども、そんな一般論なら知っています」と。問題は、四日前に死んだマルタの兄弟の死について、どうして助けてくださらなかったのか、ということでしょう。イエスは丁寧に言い直します。「わたしは復活であり命である」と。たとえ死んだ者も、「そして生きている者もわたしとの関係は切れることがない。あなたはわたしを信じているはずだ」イエスは自分がラザロを復活させると明言していません。そのことよりもマルタとの信頼関係の修復に力を入れています。

27節のマルタの答えをどのように理解すべきか、ここに今日の最大の課題があります。問題は、「わたしは信じております」(27節)が現在完了形であることにあります。日本語には無い言葉です。これは過去の行為の効果が現在にまで及んでいる場合を表す言葉です。単純な過去なら否定的な皮肉ですし、単純な現在なら肯定的な信仰告白です。しかし私はこの曖昧な表現にマルタの本心が表れていると思います。別の言い方をすれば、不信感で関係が切れかかっていたのにもかかわらず(20節時点)、マルタとイエスとの対話努力によって、このような曖昧な表現で信頼が回復されつつあるという段階を示していると思うのです(27節時点)。マルタはイエスを村の外で追い返すことはしませんでした。完全には納得していないし、ラザロの身に何が起こるのかは良くわからないけれども、イエスという人格に信頼を寄せ直してみようとマルタは考えたのでしょう。なぜなら今までイエスを信じてイエスに仕えて従って、そうして人間として解放され、人間らしく生きることができるようになったからです。

イエスの言葉に、マルタは過去のさまざまな出来事を思い出したのでしょう。イエスをキリストと信じる集まりづくりのために汗をかいていた自分。この働きにいのちがあったではないか、自分はそこで生き生きと生かされていたではないか、よみがえりを経験してきたではないか。その限りにおいて、信じてみようという思いが残ったのです。

こうしてイエスとマルタの関係が回復しました。復活したのです。この交わりに永遠のいのちが宿ります。死者の蘇生という目に見える「しるし」よりも重要なものがあります。目に見えない信頼関係というものの回復です。イエスとマルタの対話の努力が信頼を結び直しました。両者は決して暴力的ではありません。穏やかです。感情的でもありません。品位を保って理性的です。言い繕いもしていません。お互いに率直です。相手の人格を傷つけていません。尊重しています。どちらも上から目線、支配的ではありません。対等の話し合いです。こうしてどちらも折り合える部分を探っていき、見出したのです。それが27節のマルタの信仰告白です。

わたしたちの信仰とは理性を犠牲にするものではありません。神に対しても率直に不信感を表す祈りもあって良いでしょう。わたしたちの信仰とは隣人を支配する道具でもありません。むしろ信仰とは信頼関係をどんな人とも結ぶ生き方です。普段からそうであれば、あらゆる人間関係のひび割れ・きしみに対して、対話する努力によって修復・回復・復活が可能になるのです。この道のりに永遠のいのちが輝きます。なぜなら愛の神はそのような方だからです。この生き方に導かれ私たちも新たに造り変えられましょう。イエスとの出会い、それは私たちにとって復活であり命なのです。

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献堂式を迎える直前の様子

会堂を彩る花Img_2567_2

ロビーImg_2571_2

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受付の書
(書家:勝川正枝姉 作)Img_2572_2

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献堂式

2016年5月3日 岡崎教会創立137周年 Photo
新会堂建築が無事完了し、献堂式の日を迎えました。


13:30 献堂を祝すため全国から集まって下さった約150名の兄弟姉妹がたとともに、献堂礼拝を主にお献げしました。

「主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい」
詩編のこのみことばのもと心を合わせて、主に会堂を献堂したいと願い、ひとつひとつの試練を乗り越え、この日を迎えることができ、教会員のみならず、献金や助言などこの業を支えてくださった兄弟姉妹がたと喜びを分かち合うことができたことは、心からの喜びでした。

礼拝のあとには、祝会が開かれ、御来賓からのお祝いの言葉、牧師バンドの讃美等楽しくあたたかい時を過ごすことができ、この交わりこそが主の恵みであると思わされました。

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献堂がゴールではなく、この神の宮から福音伝道のリスタートです。多くの方が岡崎教会を訪れてくださることを願っています。

この後も、講師をお招きしての研修会、関西学院大学のコーラス部による讃美、外部ハンドベルグループの讃美、ファミリーコンサートなどたくさんの献堂記念行事を企画しています。ここでお知らせしていきますので、たまに覗いてくださいね。

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子どもの日・パンの日の礼拝

子どもの教会の礼拝のなかで、イエス様が5000人にパンと魚を分けたことをおぼえて、牧師がパンを裂き、子どもたちが集まった人々に分け、一緒に食べました。

新会堂になりバリアフリーで靴のまま礼拝堂に入るため、以前の会堂のように床に車座になって座ることはしませんでしたが、皆で魚の形をしたパンを囲んで祝福をうけ、楽しく恵みに満ちたひとときになりました。

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新会堂でクリスマス礼拝の日を迎えました。

 新会堂が完成し、2015年12月6日に竣工記念礼拝を新しい会堂で行われました。

 そして、今日20日(日)はクリスマス礼拝。子どもと大人と一緒にお献げしました。新会堂は音響がよく、特に会衆の讃美歌がとても綺麗な響きで聞こえます。

 24日(木)19:00~には燭火讃美礼拝があります。皆様、ぜひお出かけ下さい。

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新会堂建築 十字架が掲げられました。

 新会堂建築は、みなさんの祈りのうちに内装工事へと進んでいます。

 教会の屋根には十字架が掲げられました。

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新会堂上棟式

 2015年6月18日午後6時より、新会堂の建築現場に於いて、工事関係の方々7名を含む22名の方の出席を得て、新会堂の棟上げ感謝の祈りが捧げられました。

式は、全ての柱が建てられ屋根は野地板が張られ、新礼拝堂の特徴である天井のアーチ形の方杖が見える新礼拝堂予定の場所で行われました。

 

柳本牧師の司式で、新会堂奉献聖句「主ご自身がたててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい」が朗読され、一同で讃美歌100番をもって主を賛美しました。

牧師の祈祷では、本日、無事に上棟式が出来る事を主に感謝し、奉献される新会堂が御心に合って用いられます様にと、また今後とも工事関係者の無事と安全が守られます様にと祈られました。

エフェソの信徒への手紙2章19節から22節までを引用して、わたくし達はキリストにおいてこの建物と共に霊の働きにより神の住まいとなるとの確信をしました。

一同、主の祈り、そして、the little churchの讃美歌で賛美をしました。終わりに、柳本牧師の祝祷をもって上棟式を無事終了しました。式終了後、柳本牧師より丸ヨ建設工業と工事関係者に対する感謝と工事の安全を祈ってお礼の言葉とされました。

望みのかなう時を夢みてきた新会堂が目に見える形で姿を現され、一同、期待と喜びと感謝に満たされたひと時でした。

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新会堂建築起工式

 前日からの悪天候を振り払うような青空の下、5月14日の空は晴れ渡り、主によって歩み出す起工式を迎えることのできた喜びは、そこに集まる皆が感謝な思いに浸り、牧師の祈りに合わせ、心ひとつに祈り合えた感謝の時となりました。

 建築業者からも主だった方、建築にあたられる方の出席があり、設計士も共に喜びに加わってくださいました。

望みのかなう時を夢見てImg_7529

あせらず進み すべてをつくそう

小さなことにも心をこめて

祈りと讃美絶やさずに

日ごとに石を積み上げ築こう

神が我らを育てるように

新会堂建設のために与えられたこの歌を歌いつつ、目に見える教会の姿を待ちながら、そこに主が建ててくださる教会に集うにふさわしい教会の群れとなれますようにと祈りつつ、喜びの起工式の無事に終わったことを報告させていただきます。

 会堂建設について、少しの不安を抱きつつ歩み始めた私たちに、主は共にいてくださることを確信させてくださったこの出来事にともに参加させていただける恵みを感謝いたします。




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