子どもの日・花の日礼拝

Flower2 6月14日(日)の主日は、子どもの日・花の日礼拝でした。

 子どもたちの健やかな成長を祈り、花を飾って創造主なる神さまを讃える子どもの日・花の日礼拝は、岡崎教会では子どもも大人も一緒に集う合同礼拝です。

 礼拝前、少し早い時間に集まり、子どもたちと大人たちでたくさんの花束とアレンジメントをつくりました。ペットボトルで作った花器にオアシスをセットし、そこに 子どもたちが思い思いに、色とりどりの花たちをアレンジして、最後にメッセージカードもつけました。
 男の子たちが、思いの外楽しそうに、工夫しながらアレンジをしていました。Flower1

 講壇前の聖餐卓に、そのアレンジメントや花束を飾り、会堂には花の香りが満ち、華やかになった中、会堂の前の方の席に子どもたちが座り、礼拝が始まりました。

 礼拝の式次第は、子どもの教会のものですすめられ、讃美歌もこどもさんびかに載っている讃美歌を、全員で大きな声で歌って、主を賛美しました。

 礼拝では、柳本牧師から「本当の花大臣」というメッセージが子どもたちにもわかりやすく語られました。祝福式も行われ、子どもたちが祝福を受けました。

 礼拝後には、献げられた花を、病床にあって礼拝に集うことの出来ない方やご高齢の方に届け、また、いつも教会へ送り出してくれる家族へ、自分へと持ち帰りました。

| Comments (0) | TrackBack (0)

『最も大切な掟』   マタイ22:34~46

ファリサイ派の人々は、イエスさまがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まりました。サドカイ派もイエスさまとの論争に負けた。ならば再びファリサイ派が、ということなのでしょう。今度は律法の専門家がイエスさまに対決します。彼はイエスさまを「試そう」として尋ねます。「試そう」という言葉は、イエスさまが公生涯に入られる前、荒れ野で四十日間悪魔の「試み」(誘惑)に遭われました。その時と同じ言葉が使われています。この箇所での意味は、「敵対的な問いかけ、陰謀」という意味になるでしょう。ある人は、「イエスさまの生涯は、試みられることとの戦い」ではなかったか、と言っています。確かに、そうでしょう。イエスさまは絶えず試みにさらされていました。しかし、イエスさまの復活は、その「試み」に対する勝利なのだと思います。

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」律法の専門家、と呼ばれているのですから彼らは律法学者だったと考えられます。その彼らが神さまが与えられた掟に、重要度をつけようとしているのでしょうか。それに対してイエスさまは答えられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」これは申命記6章5節にある「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉です。これが最も重要な第一の掟なのだとイエスさまは語ります。そして「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」レビ記19章18節後半の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という言葉です。

イエスさまが言われた「最も重要」とは、些細な掟に対する重要な掟、ということではありません。これは律法の(大いなる)原理を意味しています。「神さまへの愛」と「隣人への愛」が一番、なのではなく、「神さまへの愛」と「隣人への愛」によって律法は成立する、ということの重要性が語られているのです。どちらか一方では成り立たないのです。イエスさまも「第二も、これと同じように重要である。」第一のものと‘同じように’重要であるとおっしゃっています。マタイによる福音書は、この出来事を単なる論争として取り扱うのではなく、イエスさまの宣言として捉えているのです。そして、このことは、そうであればそうであるほど、このイエスさまの言葉に対して、「どう聞き、どう応えるのか。」が問われているのです。

イエスさまの言葉はまさに「福音の凝縮」です。そこには“愛なる神”が満ちています。そしてそれは私たちに迫ります。「愛の欠如の危機」が、今を生きる私たちを襲っています。人はいよいよ自己中心的に物事を考え、自分の都合の良いように為すべきことを決定していきます。本来、その中心におられるのは神さまです。しかし、人はその罪ゆえに、神のおられるはずのところに、自分を、人間を置いてしまったのです。聖書はそこから自分を解放し、神さまを愛しなさいと言っています。神さまを愛することによって、私たちお互いの中にも愛が生まれるのです。そして私たちの内に愛がなければ、それは神さまを愛することにはならないのです。私たちに必要なこと。それは、神さまを神さまのいるべきところにおく、ということです。イエスさまは第一の重要な掟として「神さまへの愛」を説かれました。そして第二。これは第一に続く第二、という順序や序列づけで言っておられるのではありません。「次に言うのもそれと同じことだが」という言い方で言われました。

同じように重要な掟として「神さまを愛すること」「隣人を愛すること」が語られていますが、この第一、第二ということが大事です。まず、「神さまを愛すること」が「隣人を愛すること」と繋がっています。神さまを愛することのできない人間が、隣人を愛することなどできないのです。隣人とは、必ずしも私たちにとって心地よいばかりの人間だけではありません。なかには嫌いな人やウマが合わない人もいます。私たちは自分の力だけでは人を愛することなどできません。しかし、まず神さまが私たちを愛してくださったのです。だから私たちは神さまを愛することができます。神さまに愛され、愛することを学ぶのです。神さまは、人をその生まれや民族で、また女と男、子どもと大人、職業や人柄とかで分け隔てなさいません。すべての人間をありのままの姿で受け入れ、神さまの子として生きることができるように救いを完成なさいました。私たちは、その神さまから「愛」を受けているのです。自分も、隣人も、その愛に包まれています。だから、私たちも隣人を愛することができる、と語られているのです。

また、隣人を愛することなしに、神さまを愛することはできません。神さまだけを愛していると言っても、隣人を愛さなければ、神さまを愛しているとは言えません。お互い、神さまに愛されている、ということを知った時、私たちはあらゆる障害を乗り越え、隣人と愛し合うことができるのです。どちらが欠けても、それでは不十分です。私たちがお互いに愛し合うのは、一人ひとりがイエスさまが生命をかけて愛してくださった生命だからなのです。

「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」イエスさまはこの二つの掟が律法のなかで第一と第二の掟だ、というのではなく、律法そのものなのだとおっしゃいます。長くて読むのに煩わしい、と私たちが思ってしまう「律法=モーセ五書」も、つきつめれば、この二つの掟に集約されるのです。イエスさまは旧約を退け、違う教えを説かれたのではありません。ご自分でも「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)とおっしゃっています。「律法や預言者」とは当時、旧約聖書のことを指しています。旧約の教えが「神さまを愛すること」「隣人を愛すること」に集約されるのです。そしてそれを理解する者に、旧約の成就として来られたイエスさまとの出会いが約束されているのです。

| Comments (0) | TrackBack (0)

『最 後 の 者 か ら』 マタイによる福音書20章1~19節

イエスさまのたとえは、極端な筋立てのものが多いと言われます。このたとえは最も甚だしい一例と言えるでしょう。不公平な賃金の支払いは、主人の「気まぐれ」と言われても仕方ないと思います。12節で主人に不平を言う、最初に雇われ夜明けから働いていた人たちは、実績から言えば、その労働時間は日没直前に雇われた人たちの12倍です。最初に雇われた人たちの言うように、日照りと熱風を我慢して、余分に汗を流しているのです。この世の事柄についてなら、この人たちの不平は当然で、怒るのが当たり前です。しかし、この実績と報酬という原則が通らない世界が一つあります。それが、イエスさまの教えてくださる「天の国」なのです。マタイによる福音書では、イエスさまのたとえ話の多くが「天の国」を説明するための、たとえとして記されています。この「ぶどう園の労働者」のたとえも同じです。これはマタイにだけ記されているたとえで、マルコやルカにはありません。19章27節のペトロの言葉、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」いっさいを捨てて、イエスさまに従った自分の報酬を問う、ペトロの心を戒められたもののようにも考えられます。イエスさまは、「自分こそいっさいを捨ててイエスさまに従っているなどと誇っていると、かえって後まわしになりますよ。」と注意しておられるのです。

「1デナリオン」は当時の労働者が一日の労働に対して与えられる賃金の相場ですから、雇われた人たちは決して安く雇われたのではないのです。朝以降に雇われた人たちには賃金の額が定められておりません。「ふさわしい賃金」とのみ記されています。  たとえの主人の賃金の支払い方は、この世では不公平と言われるでしょう。朝から働いた者が不満を言うのは当然です。彼らは丸一日、暑い中を辛抱して働きました。一日中働いた彼らは、放蕩息子の兄のように苦々しい不満を抱きます。彼らは神さまの報いを自分の労働時間に換算したところに誤りがあります。神さまは人を全く別の視点からご覧になります。誇るべき成果のない者も、神さまの救いの中にあるのです。またこの主人は、よく考えるとそれほどに不公平なのでしょうか。彼はこう言います。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」(v.15)ぶどう園の主人は労働者たちに対して、彼らの功績に基づいてではなくて、自分自身の憐れみの念に基づいて支払う、という権利を主張しています。早朝から働いた人たちとの約束はきちんと守られているのです。彼らの賃金を削って、朝以降から働いた人たちに1デナリオンが支払われたわけではありません。このような気前よさがいったいどうして不公平として非難されるのでしょうか。

私たちは一旦罪に死んだ者です。しかし私たちには清い生命を授けて生かされる道が開かれているのです。死と墓場で終わらない生命、すなわち永遠の生命が与えられているのです。これに対しては、「私の方が資格と実績がある」というこの世の当たり前のルールは通りません。それくらい「罪と死」は、すべてを無効にしてしまいます。イエスさまは、この救いの次元では「労働の実績はあってもそれはどんぐりの背比べのようなもの。生命をいただけるのは、恵みとして受けるだけ。神さまの憐れみに気付いた人だけ。」という霊の世界の原則を、この乱暴なまでのたとえを使って、私たちに教えようとしているのです。創造者たる神さまは、人間が信じられないくらい度量が大きいのです。このような神さまを礼拝する人々は、神さまの寛大さを見習うべきなのであって、それに対して不平を言うべきではありません。「天の国」では、この世の尺度は意味を失います。私は誰よりも清く生きたとか、人に尽くしたとか、他の人よりも長い間に多く奉仕したとか、伝道したとかは、全部度外視されているのです。報いはあっても、それは、私たちの計算や取引ではありません。ひょっとして、私たちの信仰にも、ペトロのように計算が入ってきていないでしょうか。身の回りでは、親子の愛情から信仰・教会生活に至るまで、案外根底にあるのは、電卓ではないと言いきれるでしょうか。そんな世の中にあって、意味を持つことはただ一つです。それはイエスさまを通して示される、父なる神さまの恵みを喜んで受ける信仰です。

信仰によってどれだけ試練に耐えたか。苦しい病気にも潰れないで顔を輝かせているか。そういう力強い証しはどれも貴重なものです。そのように高貴に生きた方への尊敬を忘れることはありません。それは神さまの業以外の何ものでもありません。しかし、その証が、実績を持たない者の信仰より、ほんの少しでも価値を持つと思った瞬間、せっかくの感動は、「先にいる者」と「後になる者」との比較に変わってしまいます。夜明けから働いて真昼の日照りや熱風も耐えて働いた人と、日没直前に雇われ半時間しか働かなかった人とは同じにはならない、というのは肉の世界の価値判断です。イエスさまの語る「天の国」では通用しません。病と戦って信仰で勝った人や、誰よりも人に尽くし、誰よりも奉仕した人と、自分を比べてはなりません。そのような「先にいる者」と自分を比べて自信喪失する必要はありません。たとえ私たちが「最後に来た者」であっても、神さまは劣らぬ愛を与えてくださいます。私たちがいただいた恵みを素直に喜べばよいのです。

| Comments (0) | TrackBack (0)

パン裂き集会

3月22日(日)子どもの教会では、イエスさまが荒野で群衆とパンを裂いて分かち合ったPan4出来事をおぼえて、パンの日の礼拝を守りました。

 礼拝後には、礼拝堂の前の方に座布団をしき、大人も子どもも車座になって座りました。 

 新城市作手清岳にあるパン屋『麦の家』さん特製の魚の形をした大きなパン。みんなで祈りをあわせた後、牧師がパンを裂いて、パンをみんなで分かち合いました。 

| Comments (0) | TrackBack (0)

『赦しなさい』   マタイによる福音書18章21~35節

人を赦す、ということは私たち人間にとって、とても難しいことです。

ペトロはイエスさまに尋ねました。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」当時は同じ人への赦しは三度までで十分と考えられていました。ですからペトロとしては、思い切り多く言ったつもりでした。しかし、そんなペトロにイエスさまは驚くべき答えをなさいます。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。この数字には前例があります。創世記4章のレメクの歌です。最もこの歌は赦しの歌ではなく、恐ろしい復讐の歌です。「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」そう歌われているのです。イエスさまはわざと、人間の憎しみと、復讐の執念を象徴する、その数字を取り上げて、赦しの回数こそ「七の七十倍」でなければならない、とおっしゃっているのです。単純に計算すると、四百九十回ということになります。けれども、これは回数ではなく、無限であることを意味します。そして、この赦しには「~の場合には」という条件が一切付けられていないのです。イエスさまは無条件かつ無制限に赦すべきことを教えられました。神さまの赦しには回数も限度もありません。「七度までですか」と言うのでは、兄弟の罪を一度、二度、と足していき、七度を越えたら怒ってやろう、ということです。決してそこに赦しはありません。ある程度まで赦す、というのは赦しの本質上あり得ないことなのです。

さて、ここにある王様が出て来ます。彼は家来たちに貸した金の決済をしようとしました。1万タラントンは3千億円。これは途方もない数字です。1万タラントンは、人が一生働いても稼げない金額です。返済不可能な借金をしていた家来は、王の前に連れてこられます。そして、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じられます。主人に負債を作った僕は、その贖いのために、奴隷に売られるのが普通でした。「家来はひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願った。」とあります。「きっと全部」と言いますが、正直言って無理です。しかし、彼はただただ、ひれ伏して、王の慈悲を求めるのです。ところがこの王は、借金をしている家来を憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやるのです。返済を待ってくれという家来に、何と、その借金すべてを棒引きにしてくれるというのです。王のこのような赦し方は世間離れしていますが、私たちの想像をはるかに超えた、神の罪人に対する赦しを表していると言えるでしょう。

外へ出た家来は、そこで自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会います。彼が王から借り、しかも赦された負債に比べると、それは些細なものでした。しかし、彼はその仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫るのです。仲間はひれ伏して、「どうか、待ってくれ。返すから」としきりに頼みました。彼は「しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れ」ました。自分が王から赦してもらった額に比べて、わずかの借金です。しかも、その仲間には期日を待てば、返すことができる金額だったでしょう。「仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げ」ました。おそらく王は憤ったと思います。もう一度、借金を帳消しにしてやった家来を再び呼びつけて、怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡しました。金額が多いので、返せるはずもありません。一生、牢の中に繋がれているということでしょう。イエスさまはこのたとえを締めくくります。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」と。イエスさまにおいて完成をみている神さまの赦しは、人がその兄弟を赦す時、その人のものになるのであって、それまで神さまの赦しは、その人のものとはならないでしょう。

人間は少しでも自分より悪い人を発見して、心を安んじようとします。その態度が、罪の本質を表しています。神さまは「赦す」と言われるなら、絶対的に赦される方です。私たちは少しでも神さまの赦しの言葉を聞いたなら、それを馬鹿正直に受け入れればよいのです。罪の赦しが七度までではなくて、七の七十倍、すなわち無限だということの中に、神さまの赦しがこんなに豊かで、私たちの思いを絶するものがあります。そしてこれは、同時に、私たちの罪が無限だ、ということを示しています。今日のたとえは、神さまの愛だけではなく、裁きの厳しさを物語っています。この家来は、自分が赦してもらった、ということには感謝したでしょうが、神さまの赦しが、すべてに向けられているということが分かっていませんでした。神さまの愛は、私にだけではない、すべての人に同様に向けられている。しかし、人間は自分と神さまとの間では赦しを絶対的に受け取っていながら、この家来のような態度に出てしまう。私たちが、具体的に兄弟を赦さないならば、その信仰は怪しいものです。どうしても心が平安でない、というのは、神さまに絶対的に赦されている、ということが分からないからです。赦しが自分だけに向けられているのではない、ということが判る時、自分への赦しが、絶対的だと言うことが、さらにはっきりします。

そして神さまが赦されるがゆえに、私たちにも他者の罪を赦す、ということが望まれています。他の人を赦す、と言っても、私たちは生身の人間です。だから悪いことをされたらムカッとします。でも、キリストに帰ってこころから赦せばよいのです。後々まで恨みを持っている、というのは真のキリスト者のあるべき姿ではありません。キリスト者同士でも、本当に赦し合えるということが、なかなかできない時もあります。自分に敵対する者には、懲らしめてやりたいという思いがなかなか吹き払えません。それで、教会の人間関係が変になっていくのです。人間の赦しは、初めから相対的です。ただキリストにある神の赦しだけが、絶対的な赦しなのです。イエスさまに従う者たちは、自分を繰り返し傷つける者に仕返しをするというような、非常に人間的な意図を放棄しなければなりません。しかし、この無限の赦しを、人を傷つけるような振る舞いを、感情的に黙認してしまうことと混同してはなりません。殺人や強盗や暴行が、簡単に赦されてはなりません。むしろ、罪を犯した者が、その信頼を取り戻すことができるように、振る舞いを改めることを主張すべきす。

 今日のたとえは、私たちを傷つけた人々に仕返しをしたいという誘惑に抵抗できるようにな強さを与えたまえ、と。そして、天の国の荘厳なまでの寛大さを映し出せるように、恵みを与えたまえと、心から祈らなければならない、と厳粛に警告しているのです。

| Comments (0) | TrackBack (0)

秋からクリスマスまでの“岡崎教会”

 秋からクリスマスにかけて、岡崎教会ではいろいろな礼拝や集いが行われています。少しご紹介しましょう。
 礼拝は教会員だけのものではありません。ぜひ、一度教会をお訪ね下さい。そして、神様からの恵みをともに受けましょう。気になる集会があったら、お気軽に参加してみてください。いつでも、どなたでも大歓迎ですよ。heart04

11/2Shouten
 『召天者追悼記念礼拝・愛餐会』

 先に天に召された方々を追悼する礼拝を、ご遺族の方々をお招きして献げ、その後、食事を共にしながら、先輩方の信仰を語り合う会をもちました。

11/23Shukaku
 『収穫感謝合同礼拝・ブランチ』

 神様からいただいた秋の収穫の恵みを感謝して礼拝をお献げしました。この日の礼拝は、大人も子どもの一緒の合同礼拝です。子どもの教会の式次第で礼拝がすすめられ、こどもさんびかを共に歌いました。講壇の前の聖餐卓には、教会員ひとりひとりが持ち寄った秋の実りが献げられました。
 そして、翌週には献品でブランチ。今年は豚汁とサラダ。ごはんとたくさんのフルーツ。というメニュー。前日から準備された具だくさんの豚汁は絶品。みんなどんぶりに1杯ずつ、たっぷりといただきまFlowerした。

  クリスマスの講壇の生花はこんな感じです。クリスマスっぽくって、素敵でしょ。
 講壇の生花は、4人の教会員が週替わりで生けています。御奉仕によって、毎週、絶えることなく花で講壇が飾られていることはとても感謝なことです。

12/21
 『クリスマス礼拝・祝会』

Pagent

 救い主イエスのご降誕をお祝いするクリスマスを礼拝をお献げしました。礼拝に引き続いて、子どもの教会の子どもたちがページェントをしました。子どもたちも、指導してくださった教会員も、それぞれに忙しい中、時間をやり繰りした練習の成果が 十分に発揮されて、素晴らしい降誕劇が繰り広げられました。
Shukukai
 そして、その後はクリスマスの祝会です。愛餐会は持ち寄りのバイキングです。各家庭ご自慢の手作りの品々を持ち寄っていただきました。お菓子や果物、思い思いに持ち寄って豊かな食卓となりました。
 おなかがいっぱいになった後には、お楽しみの出し物。聖歌隊の讃美、和太鼓の演奏や牧師ご一家の唄、マジックやベルクワイアの演奏など盛りだくさん。サンタもちょうど近くを通りかかったようで、立ち寄ってくれ、子どもたちにプレゼントをしてくれました。ラッキー!!

12/24
 『聖夜燭火讃美礼拝・ティーパーティー』Eve

 クリスマスイブの夜、キャンドルの灯りの中で聖夜燭火讃美礼拝をお献げしました。クランツから分けられたともしびは、キャンドルボーイから礼拝堂に集う1人1人がもつキャンドルに伝えられ、礼拝堂全体がやさしい灯りに包まれました。その中で聴くクリスマスのメッセージは、やさしくうれしく心に沁みていきました。
 今年は岡崎第九フロイデ合唱団と岡崎教会聖歌隊の合唱もあり、素晴らしい賛美に満ちた礼拝となりました。
 礼拝後には、ホールに準備されたケーキなどのお菓子でお茶をいただきました。たくさんの方々が残ってくださって、ともにクリスマスをお祝いすることができました。

| Comments (0) | TrackBack (0)

『救い主の誕生』   マタイによる福音書2章1~12節

-1-

-

 クリスマスはキリストの誕生の時。私たちの救いの日が開始する、喜びに満ちた日です。神さまは私たちのために、救い主イエスさまを送ってくださいました。喜びをもって、この出来事に耳を傾ける者でありたいと思います。イエスさまはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。そして東方の占星術の学者たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を探しにやって来ます。聖書は、この学者たちの人数については何も書いていません。3人と思ったのは、救い主への贈り物が、黄金、乳香、没薬と3つあったから、と考えられています。そして彼らは「占星術」の学者たちと記されています。現代の「星占い」等とこの時代の「占星術」とは区別して考えなくてはなりません。彼らは当時東方の賢者でした。ここで用いられている[マゴイ]という言葉は、医学・宗教・自然科学・歴史・天文学などを研究している専門家たちでした。

この学者たちは東方で星を見てユダヤ人の王、救い主の誕生を知りました。ユダヤ人にとって、東方とはペルシア・アラビア・インド。彼らは異邦人でした。ユダヤ人にではなく、異邦人にキリストの誕生が知らされた、ということはたいへん意味深いことです。彼らは、遠くからはるばる旅をして、その方を拝み、贈り物をするためにやって来たのです。最初、学者たちはエルサレムへとやって来ました。そこへ行けば、その方に会えると思っていたからです。彼らは人々に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と問いました。けれども誰もがその問いに戸惑い、不安を抱きました。

学者たちはとにかくエルサレムまではやって来ました。しかし、そこから先は何処に行ったらいいのか分からなかったのです。学者たちは星を見て、やって来ましたが、肝心の救い主の元へは、どう行ったらいいのか分からなかったのです。やがて、学者たちのことがヘロデ王の耳に入ります。ヘロデ王はローマ帝国の支配下にあったとはいえ、この国の領主でした。ですからこの学者たちの訪問に、自分の存在が脅かされるのではないかと不安を抱きました。ヘロデ王は祭司長たちや律法学者たちを集めて、メシアがどこに生まれることになっているのか問いただしました。聖書を調べて、祭司長や律法学者はミカ書5章の預言の言葉を見出し、エルサレムから10kmばかり南東のベツレヘムだと答えました。するとヘロデ王は学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめました。見つけ出して、殺してしまおうと考えたのです。そして学者たちに「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出しました。

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」と聖書は記しています。学者たちは、ある家畜小屋に止まった星をたどって、幼子イエスさまに出会います。彼らの旅の目的地に着いたのです。彼らはひれ伏してイエスさまを拝みました。その後、宝の箱を開けて贈り物をします。それが、黄金・乳香・没薬です。代々にわたってこれらの意味が問われてきました。いろいろな説がありますが、これらの贈り物は、生まれたばかりの幼子イエスさまにお捧げする物としては何だか不自然なところがあります。

まず「黄金」。古代世界、特に聖書の舞台となっている世界で、黄金を受けるにふさわしい者は、誰よりも「王」でした。学者たちも「ユダヤ人の王」を探してきました。クリスマスにイエスさまに出会い、ひれ伏して拝むことは、イエスさまを「私の王」とすることだと言っていいと思います。私たちは自分自身が王となっています。自己を絶対化して他者を裁きます。自分自身を王座から引きずりおろして、イエスさまを私の人生の王として承認し、ひれ伏し拝む。それがクリスマスです。

次は乳香。これは南西アラビア・エチオピア・インド原産のテレビンに似た乳香の木の樹脂であり、白色の香料です。イスラエルには犠牲用として移入されました。祭司たちが礼拝に使う物です。また、祭司自身に注がれる聖油に入れる四つの香料のうちの一つです。祭司とは、礼拝において私たちを神と結びつける働きをする存在です。イエスさまは、ただ単に王であるだけではなく、神へと道を開くお方、大祭司なのです。この方によって、たいへんな変化が、私たちの生活に生じます。罪ある人間、神を不必要とするような高慢、神以外のものを神とする偶像礼拝、欲望に捕らえられた自己主義、こういった罪に苦しむ人間は、イエスさまによって断絶されていた神さまとの関係を新たに結び直すこととなるのです。これは大きな喜びです。解放と平安の恵みが与えられるのです。

最後の贈り物は没薬です。生まれたばかりの幼子、新しい生命の誕生にふさわしい物として没薬を捧げるとは異様なことなのです。聖書の中で、この「没薬」という言葉が出てくるのは、マタイのクリスマスの部分以外には、たった2回です。一つは、イエスさまが十字架にかかる直前、没薬と葡萄酒を混ぜたものを兵士たちが飲ませようとしたところ。多少の鎮痛作用があったのかもしれません。また、アリマタヤのヨセフが、亡くなったイエスさまを十字架から下ろした時に、ニコデモが死体の処理のため、没薬と沈香を混ぜたものを持ってきました。痛み止めにせよ、死体の処理にせよ、没薬は死と結びついています。クリスマスの捧げ物の中に没薬があったということは、その誕生の中に、すでに死の準備があったということです。イエスさまは私たちの罪の贖いのために、ご自身を犠牲とするために生まれてきたお方なのです。この3つの贈り物から、イエスさまはどういうお方かということが分かります。イエスさまは、私たちの真の王、また私たちを神さまと結びつける大祭司、私たちの罪を贖うお方だということが示されているのです。

ともすれば浮かれ気分になるクリスマス。しかし、真のクリスマスの意味はイエスさまがこの世に来てくださったことを喜ぶ日。礼拝が終わると私たちはそれぞれのところへ帰っていきます。自分の家、自分の職場、それぞれの日常に帰っていきます。学者たちも帰り、羊飼いたちも帰り、天使さえもクリスマスの事を告げた後には天に帰っていきます。すべての人が自分のもとの場所に戻っていった時、以前の自分に戻ってしまうのか。そうではありません。マタイによる福音書にはその最後の部分に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とうみ言葉があります。クリスマスに生まれ、地上に来られたイエスさまは、その時以来、世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださるのです。私たちは日常生活に戻っていきます。責任や課題のある場所、追い切れない重荷や、時にはトラブルがあり、ストレスのある場所に戻っていくのかもしれません。しかし、共にいてくださる方がいる。私たちはクリスマスの恵みによって新しくされた者として帰っていくのです。ですからクリスマスは、主であるイエスさまの誕生を祝う時であると同時に、新しい私たちの誕生の日でもあるのです。この方と共に生きる人生が始まりました。その事を、喜び感謝したいと思います。

| Comments (0) | TrackBack (0)

『復活の希望』   コリントⅠ 15:20~28

 キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」(コリントⅡ15:17~19)

 イエスさまが十字架上で息をひきとられたのは午後3時頃、金曜日のことでした。その夕方には、遺体は横穴式の墓に安置されました。土曜日はユダヤ教の安息日に当たります。ユダヤの一日は日没から数えられますから、遺体は大急ぎで埋葬されました。安息日には墓参りはひかえられ、イエスさまが亡くなられて3日目の日曜日の早朝、女性の弟子たちが遺体に香料を塗るために墓に行ったところが、墓にはイエスさまの遺体がなく、復活されたイエスさまにお会いし、墓地は喜びの場に変わったのです。このイエスさまの復活という出来事は、初めて聖書を読む人にとっては躓きであり、事実とはとうてい考えられず、全く信じがたい作り上げられた物語だと思われることを、私も十分よく承知しています。私自身も、最初は「作り話」だと思いました。けれども、やがて聖書の言葉に親しむうちに、復活のイエスさまと出会い、心から信じられるようになりました。
イエスさまを殺された弟子たちは迫害を恐れて散り散りになりました。「イエスはキリスト(救い主)である」などという主張は、誰にも相手にされなかったはずですし、他でもない弟子たち自身が、そんなことを信じられない、とういような心理状態であったはずです。しかし、復活の事実によって、その状況は一変しました。復活のイエスさまに出会った弟子たちは、迫害に屈せず、その教えは国境を超えて広まり始めました。その原動力は『復活の希望』だったのです。

 さて、世の終わりにおける死者たちの復活については、旧約にもほのめかされていますが、新約では、イエスさまの復活を「初穂」として、信じる者すべてに確約されています。コリントの信徒への手紙一15章はこのことをはっきりと言いきっているのです。特に20節をご覧ください。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」愛する者の死に直面した時、遺族にとって最大の希望は、この「復活の希望」です。死によって霊魂が離れ去った肉体は朽ちます。火葬であれ土葬であれ水葬であれ、この点大差はありません。しかし、世の終わりにおいて、その人の体はよみがえり、しかも現在のような、やがて朽ちざるをえない弱さにまとわれた体ではなく、復活のキリスト同様の「栄光のからだ」に復活させていただくのです。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:21) 神さまは人知を越える、そのみ力によって、新しい体を再び創造なさり、霊と再び結合させて、死者をよみがえらせてくださるのです。

 人間は、神さまの前に完全ではありません。アダムとエバが善悪を知る木の実を食べたという原因物語から、私たちが非常に自己中心的で利己主義で、また自ら神のごとく生きている存在であることが明らかにされています。そんな私たちにとって、「死」とは永遠の裁きなのです。しかしイエスさまが私たちのところに来てくださいました。それは「キリストによってすべての人が生かされることになる」ためでした。イエスさまが、私たちと神さまとの妨げになっている罪の問題を解決され、裁き滅ぼされるべき人間が、赦され生かされる者と変えてくださったのです。イエスさまの十字架によってすべての人が滅びをまぬかれることになりました。イエスさまは、私たちの代わりに、「罪の報酬である死」を、それがもたらす苦しみを、自ら受けてくださったのです。そして最後の敵として、「死」が滅ぼされ、イエスさまは復活されました。「神は、すべてをその足の下に服従させた」とあるように。このイエスさまの十字架を仰ぐ時、私たちに永遠の命が与えられました。「永遠」というのは、いつまでも死なないという意味ではありません。人間誰もが死を避けることはできません。どんなに元気な人でも必ずいつかは死んでしまいます。イエスさまが与えてくださった永遠の命とは、神と共に生きる命です。その命は滅びを知りません。それが与えられた私たちにとって、死とは「終わり」ではなく「世における使命の終わり」を意味するのです。神さまに生かされている人は、自分の命が偶然ではなく、神さまのご計画のうちにあるということを知っています。死とは、この世の務めを終え、神さまのみ手の中に迎えられた人たちです。今、生きている私たちも、やがてはこの世の務めを終え、そして死を迎え、この安らかな眠りに導かれるでしょう。

 私たちに大事なことは、テサロニケの信徒への手紙一にパウロの祈りとして記されていることです。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(テサロニケの信徒への手紙5章23節) やがては終末を迎える私たち。眠りについた人々の初穂となられたイエスさまが、私たちの罪を贖い、永遠の命、神と共に生きる命を与えてくださるのです。この贖いからもれる人は一人もいません。だから「復活の希望」は死がもたらす悲しみを、取り去ってくださるのです。

| Comments (0) | TrackBack (0)

『偽善者に対する警告』   マタイ15:1~20

イエス様と弟子たちがガリラヤ湖北西岸のゲネサレトという町に滞在していた時のこと。そこまで「エルサレム」からわざわざ足を運んだのが「ファリサイ派の人々と律法学者たち」でした。イエス様の宣教活動がいかに彼らにとって「目障り」という程度を越えて、双方の対決姿勢がいよいよ鮮明になり、イエス様のガリラヤ伝道の末期が近いことを窺わせています。彼らはイエス様に挑むきっかけとして、食事の前に手を洗わない弟子たちの態度を挙げて非難しました。これは予備知識なく読めば、衛生上の問題のように感じるのですが、ここではそういったことが論じられているわけではありません。彼らは食事の前に手を洗いました。手だけではありません。彼らは市場などに出た後、帰って来てから体中を洗います。多くの異邦人とすれ違ったり触れたりして、身を汚すと考えていたからです。食事の前に手を洗うのも、料理のたびごとに一定の方法に従って洗うのです。洗うための水は別に取っておき、最初両手の指先を上に向けて手首まで流すといった、細かいやり方に従います。カナの婚礼で、イエス様が水を葡萄酒に変えた個所には「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。」とあります。それがこの清めのための水です。しかし、イエス様は、この清めのための水を葡萄酒に変えられました。それは無意味な形式主義に対する、十字架の血のしるしである葡萄酒にです。つまり形式的な清めの水を、神のみ子が私たちを愛してくださるいのちに変えてくださったのです。

 さてイエスは、ファリサイ派の人々と律法学者たちにお答えになりました。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。イエス様は、律法学者やファリサイ派の人たちが「言い伝えを破るのですか」と言ったことに対して、「神の掟を破っているのか」と反問し、切り返されました。イエス様が「神の掟」として引用されたのは、モーセの十戒の第五戒、「あなたの父母を敬え。」です。この第五戒は子どもが両親への経済的な扶養義務を負うことを含む教えです。親に対する扶養義務について、ファリサイ派の人たちは「あなたに差し上げるべきものは、コルバンです。」---“コルバン”とはアラム語で「神さまへの供え物」---と言えば扶養義務から逃れることができるとしていました。「神さまに供えました」といえば、それは神さまのものだから、この世に用いてはならないと言い張り、結局のところ、戒めをつなげて言葉の遊びのようにごまかして、父母を敬うことをないがしろにしていたのです。信仰者は下手をすると、敬虔に見せるために言葉遊びや、つまらぬ体裁をつくろうことがないと言えるでしょうか。神さまはそんな辻つま合わせよりも、現実の矛盾の中で、辻つまが合わずに苦しむ信仰者の方を、喜ばれるでしょう。

 ファリサイ派の人々と律法学者たちが陥っていたように、とにかく言葉が多く説明が多岐にわたる時ほど、内容が乏しいものです。そこには結局、イザヤが言うように、唇で神さまを敬うが、心では神さまから遠く離れている現実がないでしょうか。信仰は、弁解や説明ではないはずです。信仰は、生きて働く神さまに対する感謝と喜びの応答です。そして信仰は、神さまへの愛です。イエスさまは、ファリサイ派や律法学者たちが複雑にしてしまった戒め(律法)を「神さまを愛すること・自分のように隣人を愛すること」とまとめられました。律法は、自分の生き方を良く見せるための言い訳や、体裁を整えるためにあるのではありません。律法とは「神と人への愛」につきます。私たちはイエスさまに導かれて、その愛を受け、神と人とを愛する者に変えられていくのです。

確かに信仰にとって、形式もないがしろにできませんが、ファリサイ派や律法学者たちは、外側をつくることに汲々とするあまり、内側を忘れていました。しかし、形は内なるものを表していなくては無意味です。それが神さまに仕える形であってこそ、重要なのです。「口に入るもの」つまり食べ物は、あくまでも食べ物です。たとえ、戒めに照らした時に必ずしも清いものでなく、また汚れた手で食べたとしても、口に入るもの:食べ物は、体を養って通過していくだけのことです。しかし、「口から出るもの」つまり、言葉や行為は、自分自身がすでに心の内に抱えているものから出ているのです。悪意や殺意に満ちた言葉、姦淫やみだらな行い、盗み、偽証などの行為は、人から出た時に、また新たな悪意、殺意、姦淫、盗み、偽証などを引き起こします。それが「人を汚す」のです。

 口から出て人を汚すものは全部、神の子の血で清め尽くされました。だからこそ今、わたしたちの口から発する言葉から呪いや不満を取り除かれるように祈りましょう。

| Comments (0) | TrackBack (0)

『安心しなさい』   マタイ14:22~36

五千人の給食は、私たちにとって驚くべき神様のみ業でした。イエス様が五つのパンと二匹の魚で人々を養ってくださったからです。その後、イエス様は弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」られました。ところが、弟子たちの乗った舟は逆風に悩まされました。ガリラヤ湖は突風が吹くので有名な湖です。イエス様は湖上を歩いて漕ぎ悩んでいる弟子たちのところに行かれます。しかし、弟子たちはその姿を見て「幽霊だ」と怯えました。でも、イエス様はすぐに話しかけ、自分であることを彼らに知らせられました。

「五千人の給食」の出来事と同様に、水の上を歩くこの物語も、現代の私たちにとっては躓きとなり得ます。科学の発達した現代に生きる私たちにとって、この物語はおとぎ話か神話でかたづけられることが多いのではないでしょうか。聖書神学者によって、この箇所は様々な観点から吟味され、合理的に説明しようとする試みがなされました。それを非神話化といいます。すべては錯覚だと考えられました。弟子たちは舟は陸から「何スタディオンか離れて」いたと思い込んでいました。しかし、逆風のために吹き戻され、実際の舟の位置は、ガリラヤ湖の北岸からそう沖に出ておらず、周りは浅瀬であったと考えます。イエス様はその浅瀬の中を歩んで弟子たちのところへやってこられました。弟子たちは、ここはもう湖の真ん中でまさか浅瀬だとは思っていません。だから、イエス様が来られた時、あたかも水の上を歩いておられるように見えたのです。ペトロはイエス様だと判ると「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言います。ペトロはてっきりここは湖の真ん中だと思っていますから、足の裏に感じる砂地に陸を感じることができず、また「強い風に気がついて怖くなり、」背のつく場所であるのに「沈みかけた」のです。イエス様はすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえ、二人は舟に乗り込みます。時は間もなく夜が明けようとする頃、ガリラヤ湖を吹き荒れた風は静まりました。

この物語の中で、私たちが疑いを差し挟む部分、非神話化する必要がある部分をはぶいて物語を構成してみるとどうなるでしょうか。イエス様は弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へと向かわせたということ。舟が陸から離れたところで逆風に漕ぎ悩んでいたこと。イエス様が弟子たちのところで来てくださったこと。ペトロが恐怖のあまり沈みかけたこと。イエス様がペトロを連れて舟に乗り込まれると、舟の中にいた人たちが「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエス様を拝んだこと。非神話化しなくても、この物語は福音を宣べ伝えているのです。私たちが何の疑いも差し挟む必要のないところに真理はあるのです。逆風のために波に悩まされていた弟子たち。イエス様の弟子の中には漁師がいたでしょう。彼らは舟を操舵するのには慣れていたはずです。そんな彼らでも強い逆風に漕ぎ悩んでいました。イエス様は悩まされている弟子たちのところへ来てくださいました。舟に近づくイエス様の姿に、弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。しかし、イエス様はすぐに彼らに話しかけられ、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださいました。ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言ってイエス様の許可を求め、イエス様が「来なさい」と言われたので、彼は舟から降りて水の上を歩き、イエス様の方へ進みました。しかし、すぐに強い風に気付いて怖くなり、沈みかけます。ペトロは叫びました。「主よ、助けてください」するとイエス様は彼を捕まえ「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃいますが、すぐに手を伸ばして助けてくださるイエス様の姿が描かれています。

そして、イエス様とペトロが舟に乗り込むと、風は静まったのかどうなのかはさておき、「舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」とあります。強い風にもまれている中で、イエス様を拝んだとは思えません。その時、確かに風は止んでいたのです。

私たちにとって、本当の奇跡は、神の子イエス様が、人生の荒波の中で溺れそうになっている私たちのところへ、やって来てくださる、ということです。水の上を歩こうが、泳いで来ようが、そんなことは全く関係ありません。恐れや失意の中で埋もれてしまうような私たちのところへ、イエス様ご自身の方からやって来て、私たちと共に歩んでくださるということです。罪人である私たちには、そんな資格はありません。しかし、それでもイエス様は、私たちのところでやって来てくださるのです。そして、イエス様の歩まれた道に付いていこうとしても、私たちは道を踏み外します。その時ペトロのように「主よ、助けてください」と叫ぶと手を伸ばして捕らえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られはしますが、助けてくださるのです。これが福音なのです。

一見躓きとなるように見える、聖書の物語。しかし、そこから語られている福音は、とても単純なものです。それは「主が共にいてくださる。」インマヌエルということ。そしてイエス様は怯える私たちに、「すぐに」話しかけてくださり、「すぐに」手を伸ばして捕まえてくださるのです。

| Comments (0) | TrackBack (0)

«『からし種とパン種のたとえ』   マタイ13:31~35